10章 形あるもののサイクル

前回の記事:9章 私は、自分では何もできない

とうとうきました最終章。

このサイトを一新する作業中で、記事どころではないのですが、 もう少しでお仕舞なので書いてまいります。

思えば、前回よりも実践的になるよう書こうと思ってここまで書いてきたのですが、 何か私の好き勝手な意見ばかりになっている気がします。

まぁ、このサイト一新後、 新サイトかこのサイトに「ニューアース2015Ⅱ」か「ニューアース2016」を書くだろうから、 今回は最後までこの調子で書いてまいります。

形あるもののサイクル

この章のP.624あたりまでは、今までのおさらいとなっております。 ざっとまとめると...

「大いなる力」「宇宙意識」「生命」といったものが変化して 「形(身体、思考、感情など無常のもの全て)」となったとき、 「形=自分」「形=他人」というエゴが発生し、 源である「大いなる力」「生命」を感じられなくなってしまう。

だが、人生が拡大から縮小へと向きを変えてエゴによって”これは自分である”と信じ込んでいた 「形」が崩壊していくとき、再び「大いなる力」「生命」といったものを感じるキッカケが訪れる。 (例:身体機能が損なわれる、肩書きや財産が損なわれるetc.) ただ、今まで書かれてきたことを参考に「目覚め」ることができれば別に「形」を崩壊させずとも 「大いなる力」「生命」を感じることは可能。

こんな感じでしょうか。

形にしがみつくか気付くか

というわけで、これを読んでいるあなたや私が自分だと思い込んでいる 「形」が崩れ去るとき、どういう反応をするかが重要になってまいります。

「こんなことあっていいはずがない!」「俺は一体どうなってしまうんだ!」などと考え、 自分の「形」を守ろうと必死になり、悪あがきをする人が現代社会では殆どではないでしょうか。 (かくいう私もそう) こう考えてしまうのは当たり前といえば当たり前ですが、 これでは苦しみを生むばかりとなってしまいます。

なので、 「身体機能や肩書きや財産は大事だけど、そんなに大事じゃない」という風に、 少し考え方を変えてみましょう。 どれだけ力や権力を持とうが、死ぬときは死ぬし、 死ねば今まで積み上げた財産なんて全部パーになります。

こういうことを書くと現実逃避、ただの負け惜しみのように聞こえますが、 実際そうなんだから仕方ないし、 この考え方を採用して楽になるならば、是非とも採用したほうがよいと私は考えております。

とにかく、身体や財産や思考といったもろもろの形は無常であり、 それと同一化すると苦しみを味わうことになるので、 形は自分ではない、少なくとも自分の一部でしかないことに気付けば、 エゴの解体のキッカケになるということです。

ちなみにP.617の「創造しているのは私たちでない、 私たちを通して宇宙の知性が創造する」という文言は、 前の記事で述べたとおりです。 この記事も、私の身体を通して宇宙の知性が書いております。

10章 目覚めた人間の行動に続く。

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