エゴの様々な形 解説ニューアース2013その4前編

前回の記事:解説ニューアース2013その3 後編

4章 エゴはさまざまな顔で、いつの間にか私たちの側にいる

エゴの形:どれもエゴである

ここまで読んできたら分かるように、あれもこれもエゴなのです。

あなたが劣等感を感じている価値観、思い込みは言うまでもなく、 優越感を感じている価値観、思い込みもエゴなのです。

私などは東大を卒業していますが、東大に行きたいと思ったことも 東大卒をいちいち公言していることも、エゴの成せる業なのでしょう。

その根底には 「私は”ただ存在している”という真実が不安で不安で仕方ありません。 なので、東大卒ということに対する他者による承認、賞賛などを 自分自身に付加しないと、とてもじゃないけど不安を消せません」 という思い込みがあるのです。

それで不安が消えたかというと、 全くそのようなことはない!のが何とも皮肉なところ。

何かの資格を目指す人や、医学部再受験なんてする人も、 私と同じように「自分が何ものか分からないという不安」から 行動している人が多いのではないでしょうか。 (不安から行動するから、大抵の人は失敗するんだけど)

何も目指していない人などは、他人を批判して優位性を保とうとしたり、 何か(誰か)の被害者になることでアイデンティティを確立して、 「自分が何ものでもない」という不安を解消しようとします。

エゴの形:ゴッコ遊び

「自分が何ものか分からない」ならば、それはそれでOKなのですが、 大抵の人はそれでは不安で仕方なく、サラリーマン、学生、父親、子供など さまざまな役割を演じて、言い換えれば「ゴッコ遊び」をしています。

役割を演じることは悪いことではないのですが、 役割と自分とを同一化させると、妙なレッテル貼りが始まります。

「オレは東大卒だからオレのやることは全て正しい」 「オレはアホ大卒だから何をやっても上手くいかない」 「あの人はGSで高給取りだから凄い」 「あいつはコンビニのバイトだから屑」 「あなたは優秀なのであなたの言うことは正しい」 「お前は馬鹿だからオレの言うことを聞け」

などと、無意識のうちに自分自身と他人に対してレッテルを貼り 手前勝手な判断を下してしまうのです。

役割を演じることなんて「ゴッコ遊び」でしかないのに、 その「ゴッコ遊び」にマジになっているのが、 エゴに囚われたあなたなのです。

役割と距離を置く

というわけで、4章を読んでいると 「オレが今までやってきたことは全部エゴの所為なのか! じゃあオレって一体何なんだ」 とパニックになってしまいます。

そのパニック状態を放っておき、自分が何だか分からないと素直に 受け入れれば、思考によって自分を定義することから自由になれるのです。

それは他人の役割に対しても同じことで、 思考によって定義、つまり「レッテル貼り」を止めて事実(あるがまま)と 直面すれば、思考による定義から自由になれるのです。

自由になれれば、役割に対して赤くなったり青くなったりと、 いちいち反応する苦しみから解放されるわけです。

自由になる第一歩は、しつこいようですが、 今この瞬間に「あ、オレは今、役割と自分(他人)とを同一化しているな」 と気付くことです。

同一化に気付くことができれば、自分と役割との間に距離ができ、 何かを行なうにしても、レッテルだらけのフィルター、 偏見で薄汚れたフィルターを通さずに行なうことができるのです。

※「気付け気付け」ばかりでウンザリしてきますが、 自分の無意識のパターンに気付くのは結構骨が折れます。 私の場合、1日100回じゃ済まないです。

解説ニューアース2013その4 後編に続く。

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