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今回は8章で「Consciousness(意識)」について。
意識といえば、あの引き寄せ本『シークレット』の続編である『ザ・パワー』という本の日本語訳に
「意識(マインド)」と書かれているのを見つけ、
「なんだこれー」ビックリしたことを思い出しました。
まぁ、意識がどうであれマインドがどうであれ、
そんなものは「真実」を指し示したりまたは別の方向を示していたりする、
ただの言葉という「形」に過ぎないので、各自が好き勝手に用いれば良いと思うのですが、
「思考は上手く使えば素晴らしい道具だが、使い方を誤ると破壊的になる。
もっと正確にいうと、実のところ、あなたは思考の使い方を誤ってさえいない。
あなたは思考を全く使っておらず、あなた自身が思考に使われている。
あなたが自分の思考を『これは私だ』と信じている」
という理由のため、所謂「引き寄せ」の大部分が上手くいかないというのは、
以前書いたとおり。
8章 Consciousness 前半
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The joy of Being is the joy of being conscious.
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Consciousness is already conscious. It is the unmanifested, the eternal.
The universe, however, is only gradually becoming conscious.
Consciousness itself is timeless and therefore does not evolve.
It was never born and does not die.
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When consciousness becomes the manifested universe, it appears to be subject to time and to undergo an evolutionary process.
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No human mind is capable of comprehending fully the reason for this process.
But we can glimpse it within ourselves and become a conscious participant in it.
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Consciousness is the intelligence, the organizing principle behind the arising of form.
Consciousness has been preparing forms for millions of years so that it can express itself through them in the manifested.
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Form and formlessness interpenetrate.
The unmanifested flows into this dimension as awareness, inner space, Presence.
How does it do that?
Through the human form that becomes conscious and thus fulfills its destiny.
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意識がこの発現された物質世界に降り立ったとき、形を持つ。形を持ったとき、
意識は夢見のような状態となる。
知性はそのままなのだが、意識はひとりでに無意識になる。
意識は形の中で失われ、形に同一化してしまう。これは「聖なるものの物質への降臨」と表現できる。
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この世における人類のエゴというのは、意識の形への同一化という、
宇宙の目覚めへの最終段階を意味している。
これはこの世界における意識の進化にとって必要な段階である。
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もはや最後の進化は避けられないのだが、こんな選択だれがしたのだろうか?
私である。私とは誰だろう?この世界で覚醒した意識そのものである。
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脳はこの次元における形を、意識によって高度に識別する。
脳には銀河系の星の数と同等の細胞が存在している。
ただし、脳が意識を生むのではない。意識が自らの表現のために脳を創造したのである。
なので、脳を損傷して意識不明の状態になっても、
「私であるもの」の存在は依然としてあり、意識もそこに存在している。
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そもそも、私がConsciousnessについてサッパリ分からなくても、
人生においてどのような状態にあっても、私は既に、しかも常に、失われることのない「それ」である。
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その失われることのない「それ」について、
私が今ここで、この文字を知覚したり思考が浮かんだりしている内なる空間、
「存在」として認識することは可能である。それは根底に流れているI AM、私という「存在」である。
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私が読んでいるこの文章やそれに伴う思考は前面で、「存在」はその文章や思考の背後にある。
全ての経験、思考、感情の背後に「存在」が広がっている。
8章 Consciousness 後半
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精神的な悟りとは、「私が知覚すること、経験すること、考えること、感じること」は究極的には
「私であるもの」ではないと明確に分かること、
「無常で過ぎ去るものの中には私自身は一切発見できないこと」が明確に分かることである。
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知覚、感覚、経験、思考、感情、全て来ては過ぎ去っていく。
その根底にあるのが存在であり真の私である。
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私が一体何であるか分かれば、私の人生での出来事はもはや重要でなくなり、
私はそれらを(意識の発現として)尊重はするが、それらはかつての「真剣味」や「重要性」を失う。
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この世界において究極的な問題はただ1つ、「私は人生の背景にある私自身Consciousness、Beingを、
常に感じているか?」「意識それ自体という本質的なアイデンティティを感じているか?」
「それとも、身体や出来事やマインドといった形との同一化によって、
唯一であるConsciousnessやBeingを感じられなくしていないか?」ということ。
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もし何の形にも同一化しないのなら、「私」とは一体何だろう?
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人生において出会うStillnessの意識は、思考やエゴを超越した、形と時の無い、
内なる次元へと私をいざなう。
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Stillnessには形が無く、それが私が思考でStillnessに気付けない理由である。思考は形であるから。
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Stillnessに気付くということは、静寂のうちに在るということである。
静寂であるというのは、思考を超越した意識であるということである。
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静寂に在るとき、身体や思考というような一時的に決めつけた「人間としての私」を超越し、
「私であるもの」、形を超えた永遠なる意識に私は戻る。
以上、今回はここまで。次回は9章。
9章 インナーボディに続く。
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