第2章一節から二節:解説まとめ『ニューアース』完全版

前回の記事:第1章六節から七節

今回から第2章。

サブタイは「エゴ:人類の現状」となっており、

この世界の大多数の人間が「私」と言うとき、 その「私」は99.999%エゴを指していて、 しかも当の本人はそれがエゴであることに全く気付いていないというお話。

2章ではエゴの基本情報、モノの所有、身体について書かれています。

2章一節 世界をありのままに見る

まず一節ですが、英語版にはなぜか1章以外には一節にサブタイが付いておらず、 日本語版のみのタイトルとなっており、 何で原版の一節目にはタイトルが付いていないのかは分かりません。

それはともかく、当節は言葉についての記述で 「言葉は催眠術みたいなもので、言葉というラベルを貼り付けた途端、何かを知ったような錯覚に陥る」 とのことで、

たとえば「鳥」といえば「あ〜、あの羽とくちばしが生えてる生き物ね」と知ったつもりになり、 「水晶」といえば「あ〜、あのガラスみたいな透明な石のことね」と知ったつもりになるのですが、

その「鳥」や「水晶」という言葉のラベルを貼り付けた対象の「本質」は何一つ分かっていない、 どれだけ分かっても表層止まりだということです。

※「本質」とは「生命」「意識」「全てはつながって一つである」というようなこと。

さらに、普段の生活の中で 「純粋な知覚→マインドによる認識、言葉のラベリング→良し悪し好き嫌いの決めつけ」 というようなことを自動かつ即座にやっているので、 この世界が薄っぺらい味気ないものになっているとのこと。

なので「ラベリングせずに形ある世界をありのままに見よう」と書いてあるのですが、 「ありのままに見よう」と思っても見れるものではなく、 それにはまず「自分がラベリングしている」ことに気付くことが必要になります。

あと、こんなことを書いていると 「じゃあ言葉や思考を使うなというのか!」なんて言う人が出てくるけど、

言葉や思考に限らずどの形でもそうだけど、問題なのは言葉や思考などの形自体ではなく、 それらに囚われることだというのは、当節や『The Power of Now』に書かれている通り。

※そういえば、2018年6月24日付のAmazonレビューを書かれた方は、 まさに当サブタイ通りの「世界をありのままに見る」を体験した人ではないだろうか。 チラ見しただけでも目覚めのキッカケとしては充分であり、もう後には戻れないということで、 「あらいらっしゃい!お前はもう後戻りできないんだよ!」ということではなかろうか。

2章二節 幻の自己 The Illusory Self

このように色々なものにラベリングするのが人間の習性なのですが、

このラベリングを「鳥」や「水晶」などでなく「自分自身」に向けてしまったため、 「幻の私」つまりエゴが誕生してしまったわけであります。

もっと詳しく書くと、当節にあるように、

こんな感じでエゴが発達し、そのエゴを通して思考、行動、人間関係、 私の物語、過去と未来etc.が生まれてエゴまみれインチキまみれの人生を送り、 しかもそれが「普通の人生」だと思い込んでいるわけです。

「嘘だ!そんなの俺は信じない!」「俺の人生はそんなエゴとかいうのに乗っ取られていない!」 と思う人は、試しに自分が「私は、私が、私の〜だ」と言ったり思ったりする時、 その「私」が果たして何を指しているか、観察すればよろしい。

大抵は身体、知覚、今までの経歴、肩書きや経歴、所有物、集団内での役割、 堆積した古い知識や古い価値観等のいずれかであり、 それを頭の中の声が繰り返していて、 その声に乗っ取られているだけだということに気付きます。

その気付きこそが、当節にある「アイデンティティの移行」であり、 意識の変容の始まりなのであります。

また、「幻は幻と認識すれば消える」は 「大マジックショーはタネを知らなきゃ驚き恐れおののくが、 タネ明かしされれば『なぁんだ』になるのと同じ」というのは、昨年の記事に書いた通り。

昨年書いた記事:第2章 幻は幻と気付けば消える

以上、今回はここまで。

次回からは2章三節といきたいところですが、 三節は著者の体験談で解説のしようがないので、 四節になります。

第2章三節から五節に続く。

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