ニューアース

第4章その2

解説まとめ『ニューアース』2018版 第4章その2

前回の記事

前回は、

「エゴは全てのエネルギーの源が内にあることを知らないから、 エネルギーを外に求める」

「他人の関心というエネルギーを得るために、役割を演じる」

ということを書きました。

この解決策については十四から十五節あたりに書かれているためまだ先の話で、 それより何より本章は長いので、今回は三節から六節まで一気にやってしまいます。

4章三節 自己の定義を捨てる Letting Go of Self-Definition

まずは三節。

身分や職業といった、生まれた際に決まっていた自分のアイデンティティが、 昔に比べて現代社会では緩やかになっているため、 「自分が何なのか分からない」と混乱している人が増えているとのこと。 (だから「自分探し」なんてケッタイなものが流行ったりする。自分は既に自分なのに)

この混乱というのは「分からないが、(思考で)分かりたい、分かる必要がある」 というエゴの強迫観念に基づくものなので、思考なんかで自分を決めつけず、 ただ分からないまま放っておけば良いとのこと。

当節のサブタイは「定義を『捨てる』」となっていますが、 「放っておく」の方が、 原文を訳した場合の正確なニュアンスではないでしょうか。

そしてそもそも、「自分を分かりたい」などといって、 思考によって自分を定義付けようとすることは、 自分自身に限界を引くことだというのは書かれている通り。

4章四節 事前に決まっている役割 Pre-established Roles

次は四節で、まとめると以下の通り。

  • この世界で様々な人々が様々な機能を果たすのは当然のこと。 知的、肉体的レベルは人によって異なるから。(でないと、ポルポト独裁下のカンボジアになる)
  • 問題なのは、その機能への自分の同一化が過ぎて、その役割になりきってしまい、 自分を失う無意識状態になること。
  • 自分を失うと、行動パターンと自分自身を混同し、自分を深刻に受け止めてしまう。 さらには自分の役割に見合った役割を他人に対しても自動的に振り当てる。
  • 会社、役所、軍隊、マッチョ、文化人、大人…社会に散らばっている既成の役割になりきってしまうと、 自分についても人生についても、非常に深刻に受け止めてしまう。
  • ただし「あ、私は役割を演じているな」と気付けば、自分と役割との間に距離が生まれる。

このようになっており、 最近話題になっている所謂「子供を産む機能」と同一化してしまった 「子供を産む役割」なんて、その典型例ではないでしょうか。

人々があまりにこの役割にアイデンティティを求めすぎているので、 やれ「産む機械」だの「生産性」だのといったことで大騒ぎしたり、 全くそんなことないのに「私は劣った人間だ」などと自分自身を追い詰めたりする。

これも思考による機能への同一化の仕業であり、 この機能への同一化、つまり役割によって、 取るに足らないニュートラルな出来事を気違い沙汰へと変え、 人生に苦しみを生み出しているわけで、

そこから抜け出す第一歩は、 やっぱり「自分が何を考え、何をしているかに気付く」 これに尽きると思います。

※まぁ、自分で観察して自分で気付かない限りは、 こんな文章も一時的な気休めにしかならないのだが。

4章五節 一時的な役割 Temporary Roles

第五節は「社長の前での態度とコンビニのレジでの態度が違う」という、 大抵の人が「そんなの当たり前じゃないか」と思っている話。

これについても自分が「この人は偉い人」「こいつは粗末に扱ってもいい奴」と 思考で勝手に決めつけた結果の関係であり、ちっとも「当たり前」ではないので、 自分が相手によって接する態度を変えていることに気付きましょう。

相手が部下だろうが我が子だろうが人間は人間、存在は存在であり、 そこに例外はありません。

また、2人の人間が意思疎通をはかる等の関係を持つ場合、

  • 私の考える「私」
  • 私の考える「お前」
  • お前の考える「私」
  • お前の考える「お前」
  • と4つの概念(しかも全部インチキ)が現れてグチャグチャになるため、 殆どの人間関係において争いばかり起きているのは当然である、 というのは当節の記述通り。

    4章六節 手に汗握った禅僧 The Monk with Sweaty Palm

    今回最後の六節はKasanという僧の話なのですが、 このKasanが誰なのか、調べても出てきませんでした。 (渡辺崋山くらいしか思いつかない。しかも禅僧じゃないし)

    ともかく、「社会的な役割と観念的なアイデンティティを通じて他人を見ているか、 それとも全ての人間の同一性をみているか」という話であり、 その後Kasanは寺を出て別の寺で修行し、8年後に悟りを開いて戻ってきたとのこと。

    内容はさておき、こんなエピソード載せると 「見た目や肩書きで人を判断することは悪いことなんだ!やっちゃいけないことなんだ!」 「やっぱり悟りというのは、長い修行の末に開かれるものなんだ!」 なんて考える人が大勢出てくるのではないでしょうか。

    何か、著者が名前を拝借したマイスター・エックハルトの 「神から何かを貰うために修行とか節制とかしちゃう人間は、 過越祭でキリストが神殿から追い出した商人達と同様である」 という言葉(うろ覚え)の対極にあるようなエピソードだと思うのですが、

    それは私(エゴ)のヒネた考えで、 この坊主は別に悟りを開いて偉ぶりたかったわけでなく、

    そのまま自分の寺で嘘と虚栄にまみれて生きていくこともできた(ただし苦しみはそのまま)けれども、 純粋に「楽に生きたい」「苦しみから解放されたい」と望んでいた結果、 自ら進んで別の寺へ修行しにいったのでしょう。

    まぁ、私やこれを読んでいる人の殆どは坊さんではないので 別に寺で修行する必要は無く、日々の気付きを重ねていけば良いと思うし、 受け取り方は人それぞれなので、この辺にしときます。

    以上、4節分をざっと流したけど今回はここまで。

    次回に続く>>

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