解説『釈尊のさとり』その3

Tweet

前回の記事

今回も『釈尊のさとり』についてダラダラ書いてまいります。

釈尊のさとり (講談社学術文庫)

釈尊のさとり

今回の内容は、お釈迦様が悟られた「十二縁起」と「無明」について。

十二縁起だの何だのは本当にお釈迦様が菩提樹の下で考えたのでなく、 後で付け足されたことなのでしょうが、 そんなこと言い出すとキリがないのでやめときます。

十二縁起

まずこれ。

無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死

と本当に十二個あります。

ここでいう縁起とは「これに縁りてこれ生ず」という意味で、 無明があるから行があり、行があるから識があり、識があるから名色がある…

と、無明から順番に老死へと流れるのですが、面倒くさいなら全部覚えなくてよろしい。

私もこんなの全部覚えていません。

P.48にあるように「無明→取(執着のこと)→苦」 の方がシンプルで良いし、 何なら一番最初の「無明」と最後の「老死」だけでOKです。

ともかく、お釈迦様はこの十二縁起で何が言いたかったかというと、

全ての根本原因は「無明」であるから、無明を滅すれば連鎖的に全部消えちゃう

ということで、上記のシンプルパターンでいうと、 「無明が消えれば執着も消え、執着が消えれば苦も消える」 ということであります。

無明

じゃあこの「無明」って一体何?という話なのですが、

本書では 「迷いの根本としての無知。存在と人間の真相について正しい智慧がないこと。 諸行無常の理を知らないこと」 なんて書かれています。 (『ニューアース』でいうところの「無意識」に似ている)

ただ、こんなこと書かれても大抵の人はピンとこないだろうから、 物理学的?見地でいうと、

みたいな科学的真実が列挙されることになるのではないでしょうか。 (これが科学的に誤っているという人はいないだろう)

そして、大抵の人間はこの真実を知らないし理解していない、つまり「無明」のため、 私がどうだ、お前がこうだ、あれがああだ、などと毎日苦しんでいるわけです。

全てが素粒子である、全てがエネルギーの濃淡に過ぎないと本当に理解していれば、 実際には存在しない「私」「お前」「あれ」「これ」などに執着して苦しむこともない。 「実際には無いものを有ると考えるのは無明である」とはwikiにある通り。

以上、簡単な説明だけど今回はここまで。次回は八苦とかについて。

坊主でもない私がこんな記事書いていいのかしらと思いながらも、 次回に続く>>

内面世界の記事 変化を起こして現状を打開する

メニューに戻る

ページのトップへ戻る