解説『釈尊のさとり』その6

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今回で本書の内容は多分終わりです。

釈尊のさとり (講談社学術文庫)

釈尊のさとり

梵天から教えを広めるよう勧められた後、 以前一緒に苦行に励んでいた5人とお釈迦様は再会されるわけですが、

再会された際、「自分は正覚者だお前らとは違う」 「私のことをシッダールタなどと気安く呼ぶな」 なんて5人に対して言ったという伝えがあります。

お釈迦様はそんなこと言わないだろう と思うのは私だけでしょうか。

四諦と八正道

まぁお釈迦様が5人に対して何と言ったのか、 本当のところは誰も知りませんが、 何だかんだあって5人はお釈迦様の話すことに耳を傾ける気になり、 これが所謂「初転法輪」というやつです。

その初転法輪の内容といえば「四諦」と「八正道」ということで、

の四諦と、

正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定

の八正道となっております。

まず四諦についてですが、

苦諦:苦とは何か。行苦。思い通りにならない苦。諸行無常の苦。

→集諦:苦の生起について。人間はなぜ苦しむか、際限なき渇愛、貪り、執着のためである。

→滅諦:苦の滅し方について。「これ滅すればこれ滅す」渇愛、貪り、執着滅せば苦も滅す。

→道諦:いかにして渇愛、貪り、執着、果ては無明を滅するか、これが八正道の実践。

ということで、四諦は並列ではなく、 「苦→集→滅→道」と順に流れていくものとなっています。

で、執着を滅するための八正道ですが、これは本書にある通り、

ということになります。

※ただし、これらを覚えたからといって八正道が実践できて無明を滅せるかどうかといえば、 仏教の歴史(日本の歴史だけで充分)を鑑みれば、火を見るよりも明らかであろう。

「正しい」の3条件

そんな八正道ですが、ここでいう「正しい」 とは学校で習うような正しいの意味ではなく、 下記の3条件を満たしたものだというのは本書にある通り。

1.あるがまま

本書ではsuchnessや「離妄想」とありますが、 要するに「下らない思考による解釈が無いこと」であります。

※「下らない思考」というのは99.99999%ほぼ全ての思考のこと。 人間の思考なんて殆どが下らないもので、 そんな思考で自分を救うことはできないとは今まで散々書いてきた通り。 「俺の思考は上等だ」なんて思っている輩は、 十中八九が馬鹿か基地外だと相場が決まっとる。

2.中道であること

極端に潔癖であるとか極端に堕落しているとか、 そういう極端でない「離辺」の状態であること。

綺麗事しか言わない教祖様や聖職者や教師などが裏で色々やっているのは、 綺麗事しか言わない時点で既に「中道」から外れており、 裏であんなことやこんなことをしているのも、 考えてみればごく当たり前のことなのであります。

3.等であること

「等」とは平等のことで「何にでも当てはまること」であります。

例えば、我が子には愛情を注げるが 道を横一列に占拠してノロノロ歩いているクソババア共は頃したくなるとか、 犬や猫は好きだが蝿やゴキブリは叩き頃したくなるとか、 そうではなくて生きとし生けるもの全てを等しく扱いましょうということです。

『カラテキッド4』にて、若かりし頃のヒラリースワンクが寺でゴキブリを潰し、 ミヤギさんか坊さんに怒られて反省するシーンがあったけど、ああいう感じ。

※「じゃあ細菌やウィルスも生かせというのか」なんて話になるが、 そんな極論は2番目の中道から外れるのでNG。

以上のように、「正しい」とは今まで散々やってきた『ニューアース』でいうところの 「エゴのない」状態であるといえ、それならば実践方法も自ずと分かるというものです。

これを何日もかけて6人で議論した結果、 5人のうちコンダンニャが「すべて生起するものは、また滅する」ことを理解し、 覚醒したとのこと。

ここに、お釈迦様の悟りはお釈迦様の主観でなく、 他人にも適用可能な「法」となりました、で本書は終わります。

ただし、弟子達がアホだったのでエゴを抜く方法を言葉で表現できなかったか、 もしくは伝言ゲームしている最中に核心部分が抜け落ちたのかは知りませんが、

色んな宗派が出て争いを繰り返したり、僧侶がエゴまみれだったりして、 お釈迦様の悟りとはちょっとどころかだいぶズレている現状なのは皆さんご存知の通り。

今回はここまで。

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