解説 般若心経 その2

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今回から般若心経の内容について書きます。

いきなり言い訳して申し訳ないですが、私は専門家でも何でもないので、 ただの「英文和訳」みたいなものになるかもしれんけど勘弁して頂戴。 しかも英文じゃなくて漢文で、肝心の訳も適当なんだけど。

それでもまぁできるだけ分かりやすく書くように努めていくし、 訳文だけじゃ素っ気ないので雑談を織り交ぜながら書いてまいります。

観自在菩薩行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄

最初の「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」はタイトルなので飛ばします。

※一応言っておくと、「摩訶」は「偉大な」、 「心経」は「(大般若経の)本質を抜粋した経」の意味。 その他は下記参照で、タイトルを直訳すると「仏が説いた偉大な智慧修行の本質を抜粋した経」となる。 飛ばすと言いながら結局訳してるじゃないか。

それで一発目を適当に和訳すると

「観自在菩薩が智慧の修行を極められたとき、 五蘊は全て空であると見抜かれ、一切の苦厄を超越された」

となり、それぞれの単語の意味は

といった感じになります。

ちなみに、「菩薩」というのはブッダになる前のゴータマ・シッダールタのこと。 対して「如来」がブッダになった後のシッダールタのことで、

王族だった頃のシッダールタを表現した菩薩像は服装が派手で、 如来になったら質素だというのは、奈良や京都に行けばよく分かります。 (私がよく行ってた寺は東本願寺で、理由は駅に近いのと、何よりタダだから)

こういう仏教の基本みたいなのを見聞すると 「地蔵菩薩や弥勒菩薩は菩薩なのに服装が地味じゃないか」とか 「そもそも何でゴータマ・シッダールタという1人の人間が 観音菩薩や地蔵菩薩や弥勒菩薩や釈迦如来や阿弥陀如来や大日如来やらに分かれたんだ」 といった疑問が湧くのですが、

地蔵菩薩や弥勒菩薩は実質は如来なのだけど、現世の迷える人々を救うため、 あえて菩薩に留まっている名誉菩薩?みたいなものだからであり、

仏(仏像)の種類がポケモンの如く色々あるのは、 それはもちろんヒンドゥーの神々と混ざったからじゃないの、 シルクロードかどこかを通った際に道教の神々とも混ざったかもしれない、 ということしか私には分かりません。

この辺のことは雑学程度に覚えておけばよいし、 もっと知りたけりゃ自分で調べればよろしい。

「空」とは何だ?

ともかく、観音様は五蘊全てが「空」であると見抜かれ、 一切の苦厄を超越されたとのことですが、 じゃあその「空」とは何かという話。

ネットで少し調べれば分かりますが、 「空とはこれや!!!」という確固たる定義が存在せず、 坊さんからコピペブロガーみたいなのまで、 銘々が好き勝手なことを言っているのが現状です。

なので私も好き勝手言わせていただくと、

空とは無常な諸行が起きるスペース、つまり「この宇宙空間全体」のこと

こんな風になり、もっとミクロ的視点でいえば

空とは思考(つまりエゴ)の介入が無いニュートラルな空間

みたいになります。

こういう風に定義しておくと、 後に出てくる「不生不滅 不垢不浄 不増不減」等の説明がつくし、

たとえ頭にきて真っ赤になったり恐怖で真っ青になったとしても、 身体中の神経伝達物質や血液や各器官はちっとも怒ったり恐れておらず、 ただニュートラルに反応しているだけ、みたいなことが実感として分かり、 思考や感情というものの絶対性にヒビが入るわけです。

まぁこれも私の好き勝手な言い分で、言葉で説明しようにも無理なことなのですが、 ともかく、 「人間を形成している五蘊というものが空だと見抜ければ一切の苦しみを超越できる」 というのが般若心経の出だし部分であります。

以上、今回はこれまで。

一行目でこんなに長くなって大丈夫なのか、 ちゃんと最後まで書けるのかと思いつつ、 次回は色即是空 空即是色について。

次回に続く>>

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