全滅の大学受験 ニートから東大合格への道その3

前回の記事:何もしなかった高校時代 ニートから東大合格への道その2

高校3年になっても、やる気の無さは相変わらずでした。

いや、やる気というか、「勉強しないと大変なことになる!!」 という焦りはあったのですが、

いざやろうと問題集に向かうと、 2年間勉強してこなかったため、Q大の入試問題はおろか センターレベルの問題も全然分からず、頭の中が真っ白になっていました。

で、体が硬直し、ただ問題集や参考書を眺めるだけの日々を過ごしていました。

何なのでしょうか、あの「やらなきゃ!!でも、できない…」 という焦りみたいなのは。

今ならば、そんな焦りの中でも、ただ一歩を踏み出し、 1つ1つやり続けていれば、 段々と道は開けてくるということが実感や体験として分かるのですが、 当時はそんなこと分かるはずもありませんでした。

思えば、私は幼稚園の頃から親に褒められたことが全く無く、 いつもケチをつけられ、罵られてばかりだったので、 「成功した」「やり遂げた」という感覚が、 高校生になっても身に付いていなかったのでしょう。

両親も高卒のクズなので、クズにふさわしい子育てしかできなかったのは、 仕方の無いことだと思います。

私も私で、親に褒められなくとも、 親に依存せず自分で何とかしていけば良かったのですが、 そんな思考力も能力も、高校生の私には無かったのでした。

それはともかく、焦るが硬直してやり始めることができない 私が唯一できることは、問題を先延ばしにすることだけでした。

「GWからマジメに勉強をはじめよう」しかし、できない。 「夏休みからマジメに勉強はじめよう」しかし、できない。 (3年の夏休みは一体、何をしていたのでしょうか?本当に覚えていません) 「2学期からマジメに勉強はじめよう」しかし、できない。

まともに勉強しないまま、とうとう冬休みになりました。

ここまでくると流石にマズいと思ったのか、定期テストの時と同じく 一夜漬けの時と同じような感じで、センターに向けて勉強を始めたのです。

どうしてこれを高2の冬休みからやっておかなかったのかと思ったりしますが、 まぁ馬鹿だったので仕方ないですね。

全滅の大学受験

センター試験本番、「あれだけやったんだからできる!!」 という全く根拠の無い自信で臨みました。

「あれだけしかやっていない」が本音であり、 心の底では何とも不安な気分になっていたのですが、 それを打ち消すように、「大丈夫!できる!」と、 無理矢理自分に言い聞かせていました。 (カイジの鉄骨渡りみたいやなw)

しかし、やっていない人間に対して現実は非情でした。

センターの結果は、800点満点で500点台前半!! (それでも7割近くあったのは凄い。まぁ小学校の時は国数理社オールAやったからな)

あれだけ3年間勉強していなかったので、 この点数でも多すぎるくらいなのですが、 ついに「Q大に入学する」という妄想は打ち砕かれ、 現実と対峙することとなったのです。

結局、Q大を受験することは不可能になり、 前期を地元の駅弁大学工学部、後期を田舎の駅弁大学工学部にし、 滑り止め?で、関西大学、立命館大学、同志社大学の工学部を それぞれ受けることにしました。

現実と対峙したことで、心を入れ替えて勉強するかと思いきや、 Q大への道を断たれた私は、最早何もする気が起きず (元々やる気など無かったのですが) 無勉強のまま、関西、立命、同志社の試験を受けに 受験会場のある博多へと向かったのでした。

私の時代から、関西の大学も博多で受験できたのです。

博多駅に到着した私は、誰にも邪魔されない一人旅に自由を感じ、 宿に荷物を預けた後、すぐ街に繰り出しました。

小学校から高校まで抑圧され続けていた私は、 ここぞとばかりに、関西大学の試験だけマジメに受けた後、 立命と同志社の試験はサボり、ゲーセンで遊び、屋台で食べ、 一人旅を思いっきりエンジョイしたのです。

結果は、当然ですが全滅でした。

親には「もう少しだったはずなんだけどなぁ」と 大嘘を言ってごまかしていました。

そしてやはり無勉強のまま、地元の駅弁大の試験に向かいました。

地元の駅弁大は、国立大学の中でも最低クラスの大学だったので、そんなところに行きたいとも思わず、 試験中はずっと居眠りをしていました。

何の感慨も沸いてこない卒業式

3月1日、私の暗い高校生活は、卒業式によって終わりを告げました。

高校生活3年間を思い返してみると、楽しかったことといえば、 高校合格時にスーファミを買ってもらったこと、 修学旅行の上高地や松本旅行が楽しかったこと、 そして上記の博多1人旅くらいのものでした。

あとは勉強もせず、部活もせず、授業では寝て、 家では机に座り参考書を眺めていた3年間でした。

私は高校生活で一体何がしたかったのでしょうか。

おそらく、もう疲れて何もしたくなかったのだと今では思うのですが、 気分が焦ってイライラするばかりで、 本当に何もしない3年間でした。

そのくせ、劣等感と嫉妬心だけは人一倍で、 進路が決まったクラスメート、 特にQ大受験して合格した奴らを妬みまくっていました。

この高校生活の3年間は今でもトラウマで、 研究室(もちろん東大)の同窓会には平気で出席しているのですが 高校の同窓会には出たことがありません。

距離が離れているというのもあるけど、 通知が来たら即廃棄しています (2015年の今なら余裕で出れるけど、 氷河期で落ちぶれてる奴多いし、 逆に妬まれるからやっぱ出ないかな)。

そんな素敵な卒業式から数日後、 地元駅弁大学から「不合格通知」が送られてきました。

「こんな低レベルな大学にも合格できないなんて!」と両親は激怒し、 あわや勘当されそうになりましたが、 まだ後期が残っているということで、なんとか引き延ばせました。

そこから、心を入れ替えてマジメに勉強する…はずもなく、 またまた無勉強のまま、後期のS賀大の試験に臨むこととなりました。

新幹線で博多まで行き、博多から特急に乗ってS賀市に着いた私は、 「こんなところに住みたくない!」という思いで一杯でした (なんでや!ええとこやと思うでS賀)。

もうやる気が無さ過ぎて、試験開始後30分で試験どころかこの現実にウンザリし、 「体調が悪いので帰らせてください」と試験官に告げて試験から逃げ出した私は、 駅前のゲーセンでゲームに熱中し、完全に現実から逃避しました。

現実から逃避しすぎたおかげで、帰りの特急に間に合わず 鈍行で博多まで戻る羽目になりました。

後期試験にも落ちたことを知った両親は、 自分たちは高卒という事実を棚に上げ、烈火のごとく怒りました。

両親の、幼稚園の頃から続いている、 手も足も出る2人がかりの説教に耐えながら、私は

「やっぱ『この親ありてこの子あり』だよなぁ… オレ、なんで生まれてきたんだろう」 と思っていました。

私を2人がかりでどついて気分も晴れた両親は 1年だけ予備校に通うことを(別に頼んでもいないけど) 許可してくれたのでした。

おそらく、地元で唯一マトモな高校を出た私を高卒で働かせるのは、 世間体が悪すぎると考えたためでしょう。

というわけで、両親のありがた〜い温情により、 私は一年間、地元の予備校に通うことになったのです。

浪人してまぐれ当たり ニートから東大合格への道その4に続く。

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