前回の記事:8章 意識
今回は9章でインナーボディについて。
本章冒頭には
We have to enter the body to go beyond it and find out that we are not that.
と書かれていて、
大学入試だと「itおよびthatを明確にして和訳せよ」なんていう問題が出てきそう
とか思ってしまったのですが、
もう8月になるというのに、
今年は受験に関する記事を何も書いていないことに気付きました。
まぁ昨年は一年通して色々と書いたし、
「(受験生のために記事を書いても)ご褒美はないんだぞ」だし、
受験なんて毎年変わるものでもないから、昨年ので良いでしょう。
9章 THE INNER BODY 前半
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肉体的感覚との同一化、年老い、収縮し、去っていく身体を「私」と同一化することは、
遅かれ早かれ恒常的な苦しみを生み出す。
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「身体との同一化をやめる」というのは、身体を無視したり、粗末に扱ったりすることではない。
健康なうちはその健康が続く限り楽しめばよいし、健康を保つために食事や運動をすればよい。
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身体を「私であるもの」とみなさなければ、美が色褪せ、活力を失い、身体的能力が衰えても、
「私であるもの」の自尊心、真価は決して損なわれない。
実際、身体が弱まるにつれ、形のない次元から意識の光が、衰えた身体を通して輝き出す。
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「存在」「私は在る」といった形のない意識ひいては「源」と、
形である身体や思考とをごっちゃにしたとき、エゴが起動する。
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このカン違いこそが「形との同一化」であり、人類が「存在」「源」を忘れてしまった一番の原因である。
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身体との同一化はエゴの最も基本的な形の一つだが、
そのような身体との同一化は「簡単に超越できる」という朗報がある。
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これは私自身に「身体は私ではない!」と証明、納得させることによるものではなく、
身体的な形自体や「美醜、強弱、太細」といった身体に関する思考から、
身体の内に息づいている生命の感覚へと、注意や意識を移行させることである。
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たった今、私の身体がどんな形で発現していたとしても、
強烈な生命エネルギーがその形を超えて躍動しているのだ。
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2,3回深呼吸をして、自分の身体の内面を感じてみる。
身体全体に行き渡っている「生命」を感じてみる。
次に手、腕、脚、腹、胸、首など、特定の部位を感じてみる。
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そこに生命はあるだろうか?唇とかはどうだ?
そして再び、身体全体として内にある生命を感じてみる。目を閉じたければ閉じてやればよい。
何かをやりながら感じてみてもよい。
9章 THE INNER BODY 後半
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私のインナーボディは個体ではなく、空間的なものである。
身体的な形ではなく、その身体的形状に命を与え生かしている、
内臓機能から細胞の分子1つに至るまで息づいている知的生命である。
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私がその生命に気付いたとき、その生命、その知性がそれ自身に気付いたことになる。
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ここに書かれている「インナーボディ」とは、本当の身体では決してなく、
生命エネルギーのこと、形を超えたものとの橋渡しをしているエネルギーのことである。
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インナーボディを感じる回数を増やせば、自然に感じることができるようになる。
たとえば、何かを見聞きしながらインナーボディを感じることは可能である。
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おかしな話だが、インナーボディを感じているとき、私は最早、私と身体とを同一化していない、
私とマインドとを同一化していないことになる。私はもはや形に囚われていないことになる。
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この身体的目覚めは、私を「今」につなぎとめるだけでなく、エゴの牢獄からの脱出口になる。
あと、身体的機能もなぜか知らんけど自然に回復していく。
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このインナーボディによる覚醒を、「空間」を創るのに日常生活において大いに利用する。
何かを待っているとき、聞いているとき、空や木や花を見ているとき、誰かと対峙しているとき、
同時にその内にある生命を感じる。
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これは、私の注意、意識の一部が、なお形を超越した領域にあるということである。
このような感じで「身体に住まう」ことをしているときは常に、今に在ることになるし、
思考や感情や外部の状況に囚われて自分を見失うことを防いでくれる。
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私の形ある身体は、私が身体の深層へと潜ることにより、
形を超越した「本質そのもの」の正体を表し、「内なる空間」への扉となる。
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内なる空間には形が無いが、生命が強烈に躍動している。
その「カラッポの空間」は生命力に満ちており、全てがそこから発現する「源」となっている。
これこそが「神の源泉」である。
以上、今回はここまで。次回はラストの10章。
10章 全生命と一体に続く。
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