感情を感情として体験する:感想『ガンガジとの対話』

前回の記事:最終的には何もコントロールできない

手探りで始めた当コーナーですが、 今回は以前紹介した本『悟りを生きる』みたいな内容。

この対話を読んで実感として理解していれば、 わざわざ何千円も出して回りくどい本を買う必要などないことが分かります。

※私としては定価で買ってしまった『悟りを生きる』をそろそろ捨てたいのだが、 プレミアがついているためスケベ根性が出て捨てられないでいる。 住所がバレてけんまされるのも嫌なので誰かにあげることもできない。

あと何度もしつこいですが、ちゃんと読みたい人はこんな下らない文章読まずに サイトを読んでください。

真の平安

今回は先天的な体調不良で、常に体に痛みがあったり厳しい食事制限をしている人の話。

http://gangaji.jugem.jp/?eid=126

それに対するやり取りは以下の通り。 (長くなるので端折っている箇所沢山。ちゃんと読みたい人は↑の本文を読んで)

質問者:このような身体の状態が原因で、 私は、考えるのを止め平安でいることと、自分の思考と戦うことの両極を、 まるでヨーヨーのように、行ったり来たりしています。

ガンガジ:あなたがたった今お話しになった、 ”私”とはどのような私を指しているのでしょうか?

質問者。。。

ガンガジ:ここであなたがおっしゃっている”私”とはマインドの働きのことですね。 あなたが言及された平安も恐怖も、どちらもマインドの活動の中で起きている事柄です。 もちろんあなたがお話しになっているような難しい状況の中で、 マインドが平安と恐怖の間を行ったり来たりするのは当たり前です。 それは悪いわけでも間違っているわけでもありません。

でも私がお話ししたいのは、あなたのマインドが平安を感じていようが恐怖を感じていようが、 どのような状態にあろうと関わり無く、行ったり来たりしない何かがここにあるということです。

質問者(しばらく沈黙)

ガンガジ:それは何でしょう?

質問者 。。。静けさ。

このような感じで、 平安と恐怖を行ったり来たりしている状態でも変わらないもの、 それが「静けさ」とのこと。

この「静けさ」こそが思考等がやってくる「源」のことで、 たとえどんな思考や感情が起きようと、怒ろう心配しようが笑おうが、 それらの感情は「源」と分離することはなく、「源」は変化することがなく静寂そのものである、 これが「真の平安」というわけです。

ただ、こんなのって「この思考がやってくるのが源なんだ!」 「変化しない源が真の平安なんだ!」などと頭で考えても 一時の興奮だけで何も変わらないし、 「源」を探し求めようとしても無駄だというのは何度も書いている通り。

なので、「分からないままでいる」や、 船場吉兆他の対話で出てくる「(考えても分からないから)頭が真っ白になった」 を少しでも体験すれば、何か分かって?くると思います。

※あと本文にあるように、「静けさ」というのはマインド、 つまり頭の中の声が何もしなくなったという状態ではない。 「あなたの頭の中が静かだろうが騒がしかろうが変わらないもの、それが『静けさ』」であり、 この辺勘違いしていると堂々巡りになる。

感情を感情として体験する

続き。

ガンガジ:私たちはある変化を好み、ある変化は好みません。 人が生まれたり死んだり、季節が変わったり、地球の地理や状態が変化したりというように、 ある変化は好まれ、ある変化は嫌われるのは自然です。

あなたは、ある日は気分がとても良く、ある日は気分がすぐれない。 痛みがあればなおさら、良い気分や嫌な気分があって当然です。それが人間です。

けれども、あなたの核に常に変わらない静寂な意識が存在することに気づくと、 気分や感情の如何で、ご自分の価値を計ることがなくなるでしょう。

もちろん身体の具合が悪い日は気分が悪いのは当然ですし、 マインドは、『何故私はこんな身体に生まれたのだろうか』と悩むのは当然ですが、 このような感情に対して心を開いてご覧になってください。

底には恐れがあるはずです。いつか良くなるのだろうか、 いつまでこのようなことが続くのだろうかというような恐れです。 恐れは大変に人間的ですし、悪いわけでも間違っているのでもありません。

質問者:恐れに心を開くことができる時もあります。 恐れに対して心を開くと静けさが感じられますが、でもやがて再び恐れにとらわれます。 そのことが私には両極を行ったり来たりしているように感じられるのですが。。。

ガンガジ:両極を行ったり来たりしているとあなたが決めつけてしまうと、 調査の機会がなくなってしまいます。 あなたがおっしゃるところのどちらの極をも、 異なったレベルの恐れであるととらえて、 今ここに存在しているのは何かを調べる機会であると受けとってご覧になってはいかがでしょう。

といった対話が続き、

”何が現れても間違っているわけではないのです。 ただ単にそれが現れたというだけのことです。” シンプルに申し上げますとそのようになります。

といった結論?になっております。

「ただ単にそれが現れたというだけのこと」 少し考えてみれば、これが紛れもない「真実」であると実感できるでしょう。

つまり、どんな思考、どんな感情、どんな事象が現れようが、 それらは「分子の変化を知覚しただけ」ということではありませんか。 (思考だろうが感情だろうが物理的事象だろうが、全て分子の状態変化やで)

そのシンプルな状態変化を思考でもって「これは良い。ずっと保持したい!!」 「これは嫌だ。あっちへ行け!!」とやるから、 「現れたもの」ひいては人生自体がややこしいことになるのであります。

なので、

とかやっていると、現れたものを「直接体験」をすると、 感情は感情としてそのままに体験する機会ができ、 感情のもっと奥にある何かを体験することになるのですが、 実際にやらなきゃ分からないというのはしつこく書いている通り。

以上、既に完成されたものをあれこれ弄るのは何とも気が引けてやりにくいけど、 こんなんでええんかと思いつつ今回はここまで。

「魔法という希望」を捨てられるかに続く。

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