悟りの障害となるもの:感想『ガンガジとの対話』

前回の記事:思考のループを断ち切る

ダラダラ続けてきた当シリーズも、今回で一旦オシマイであります。

理由としては、単に私の続ける気が薄れてきたからで、 また気が向けば再開いたします。

今回紹介するのは、「悟るための一番の障害は何か」という対話。

悟って憧れの覚者みたいになりたい人、 悟って理想の自分になりたい人には必読のお話となっております。

深い目覚めの過程で障害となる神話とは

というわけで本編。

http://gangaji.jugem.jp/?eid=51

質問者:目覚めの過程で、障害となる神話や、 私たちが手放さなければならない考え方のパターンというのはありますか?

ガンガジ:一番の障害は「悟りという何ものかが、どこか他のところにある」という神話ですね。

それが、ある特殊な状態だとか、達成して得る何ものかであるだとか 、何か特別なゴールであるというような考え、 つまり、『意識』としてのあなたが、あなたの覚醒の源ではない、と信じ込むことです。 一番大きな神話はこれです。

小さな神話、例えば、もし私が悟ったなら何もかもあらゆることがわかってしまうだろうとか、 悟った人は他の人の心が全部読めてしまうだとか、悟ると永遠に至福の状態であるとか、 悟った人には良いことしか起きない、決して悪いことは起きないとか、 そのような人々は絶対に病気にならない、身体的に死ぬことが無くなる、 などというようなものは、皆、この大きな神話から発生しています。

そして、このような考えは、生き物としての私たちとは全く関係がありません。 私たちを分離させ、悟りを、対象としてとらえ、悟っていない『私』とおなじように、 悟った人を対象としてとらえる古い考え方へと引き戻します。 そうなった途端に、あなたのゴールは「どうしたらあの悟った人のようになれるのか」ということになります。 そしてそこから、確実に思考のプロセスがはじまります。

世界にはたくさんの異なった伝統があり、それぞれに異なった神話があります。 私にとって、ラマナの自己検証の素晴らしいところは、『あなたがしていることすべてを、止める』というところです。 概念化することを止める、なぜなら、神話は概念があるところに現れるからです。概念なしには神話は現れません。 私たちは誰もが物語を持っています。誰もが、物語の中に住んでいます。

ところが、それがいったん神話化されると、真理とは何かというゴールとなります。 このようなことがラマナの場合にも起こりました。

人々は彼のことを、内側で常に慈悲深く、 いつも幸せな人間であると思っていますが、それは間違いです。 彼も人間でしたから、機嫌が悪いときもありました。 機嫌が悪いというのは、悟りという神話には当てはまらないと人々は思うわけです。

そしてラマナは「悟りそのものとあなたを切り離すのを止めるように」と言っています。 私たちが、あらゆる概念や神話のすべてを進んで手放したとき、 「ここに在るものは何なのか」が分かります。

このように、悟りの障害になるのは

といった大小の神話であり、

「小さな神話」の元になっているのが「大きな神話」だというのは対話にある通りで、 どちらの神話も「思考によるデッチ上げ、デタラメ、嘘っぱち」であるのいうのは、 賢明な読者の方ならお分かりでしょう。

そして、悟り系にせよ引き寄せ系にせよ、スピリチュアルに関わる殆どの人間が、 このようなデタラメな神話に囚われ操られているから、

足りない頭で理屈をこねくり回してスピリチュアル難民になったり、 ただの俗物を教祖様と奉って依存したり(そして勝手に幻滅する)、 果ては教祖様にカモられて自身や家庭を崩壊させたりと、 この世を地獄に変えているわけであります。

※かくいう私も他人事ではなかったが…

対して、ラマナの言う「すべてを止める」 「あらゆる概念や神話を手放す」を実践するのに、 高度な頭脳や知識は必要ないし、 誰かにお伺いを立てる必要もないし、金もいらないしで、

いざ実践してみると今まで苦しんでいたことが嘘みたいになる、 どちらが良いかは明白ではないですか。

※すべてを止める方法、概念を手放す方法については、 当サイトのニューアース解説等で散々書いてきた。 実践を重ねればスッと思考を止められる (というより、思考との同一化を引き剥がせる)ようになるが、 だからといって二度と思考に囚われて苦しまなくなるということではない。

意識の内に身体がある

では続き。

質問者:解放的ですね。 「あなたは本当に優しいですね」と私があなたに申し上げましたら、 「いいえ、私はちっとも優しくなんかないです。」とあなたはおっしゃい笑いましたよね。

私たちにとってとても重要だと思うのは、あなたも私たちと同じように、イライラしたり、 不機嫌だったり、怒ったりというような、上がったり下がったりする感情があるということを、 私たちが、感じたり知ったりすることですよね。

ガンガジ:その通りです。ムードがあります。人間の身体がここにあります。 そして、すべての人間の身体にとって何よりも素晴らしいのは、 「今ここ」という意識のなかに、この人間の身体があります。 人間の身体の中に『意識』が宿るのではありません。

この無限大の『意識』、それを私は『命』と呼んでいますが、そのなかに人間の身体が現れるのです。 ですから、人間の身体は人間の身体として機能しています。 それはよくもあり、ときには悪くもあるのかもしれません。

優しいということに関して言えば、ガンガジはもっと、優しくてもいいのかもしれません。 皆さんの不平不満に対して、余り我慢強くありませんね。 ですからね、話を戻しますが、リプタナンダの師であった、ニティアナンダに関する素敵な逸話があります。 人々が彼に会いにいったときのこと、ニティアナンダが木の上に座り、 やってくる弟子たちに向かって、ものを投げつけていたというのですね。 『もう来ないでくれ。誰にも会いたくない。質問されるのは、まっぴらだ』と言ってね。。。(爆笑) 意地悪でないほうがいいのはもちろんですが(笑い)、 ありのままのあなた、そのままのあなたでいてよいのです。

ただし、神聖なじれったさというのもときにはあるのかもしれません。 あなたの人生にとって最も深淵な問題であるというのに、 あなたはのらりくらりと過ごしている。そのような自分自身に対してのじれったさは、素晴らしいですね。(笑い)

ですから、「目覚めればそこには甘い光だけがあり、そうなれば私はずっと幸せで安全だ」というように、 一方に偏った見方や神話を作り上げてしまっていると、意識の広大無限さを制限してしまうことになります。 私たちはもう既に満たされているのです。生まれつき満たされています。

というわけで、

所謂「覚者」にも喜怒哀楽の感情はあるので、 「悟ればずっと幸せになる」なんていう神話は捨てなさい、 あなたはそのままでいいですよ

というお話でした。

だからといって、 「そのままでいいなら、今まで通り思考や感情に振り回されて苦しんで生きていこう」 とやると、対話中でいうところの「神聖なじれったさ」が現れるとのこと。

要は、「悟るのに一生懸命勉強して良い大学に入ったり何千万円も金を稼ぐ必要はない、 他人どころか覚者の言うことを聞く必要もないし、品行方正になる必要もない、 マジでそのままでいい、あなたは既に悟っているし満たされている」 ということなのですが、

まずは自分が思考(凝り固まった価値観も含む)や それに伴う感情に振り回されて生きていること位には気付きましょう、 でなきゃ何も分かりませんよ、ということだと私は思うのですが、 この辺は人それぞれでしょう。

また、身体と意識との関係については書かれている通り、 「意識の中に身体がある。 身体があるから意識があるのではないし、意識とは思考のことではない」 ということで、他の対話でも散々書かれていること。

これは丁度、以前言及したニサルガダッタ・マハラジの 「私の身体はニコチンを必要とする、しかし、私は身体ではない」 という台詞が実感として分かれば理解できるでしょう。

以上、今回はここまで。

気が向いたら次回に続くかも。

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