前回の記事:『釈尊のさとり』総まとめと私見
前回まで『釈尊のさとり』について色々書いてきましたが、 今回から「ついで」と言っては何ですが、 般若心経について色々書いてまいります。
般若心経についての解説書は色々あり、 私も色々読んできましたが、どれを読んでもいまいちピンとこなくて、 逆に関係ないと思っていた『釈尊のさとり』 が一番分かりやすいというか心に響いたというか、そういう有様でした。 (「お前が読んできた本がロクなもんじゃなかったんだろう」 と言われればその通りなのだが)
そんなこともあり、仏教についての解説は坊さんよりも、 それを観察対象としている学者やインテリの方が 宗派やら何やらのしがらみに囚われていない分、 自由に書かれていて分かりやすいんじゃないか、 というのが私の意見なのですが、その辺は人それぞれでしょう。
※それじゃあ岩波文庫(青)の中村元大先生の本だけ読めばいいじゃん、
という話なのだが、岩波文庫って字が小さいしやけに古臭いフォントだし、
何より眠私などには畏れ多いため、とても読めません。
真面目にやりたい人、東大イン哲レベルの人は読めばいいんじゃね。
ではまず般若心経とは何かという話なのですが、 これはwiki見てもらえば分かる通り大乗仏教の経典であり、 鳩摩羅什や玄奘が漢訳したものが7〜8世紀に日本に入ってきた等、 そういう経緯になっております。
大乗仏教というのはナーガルジュナ(龍樹)が3世紀頃まとめたもので、 自分で悟りを開く既存の「小乗」ではなく、 衆生救済を目的とした「大乗」であるとか、阿羅漢ではなく菩薩であるとか、 この辺は世界史やった人なら少しは覚えているでしょう。
私としてはお釈迦様が何を言ったのか、どんなニュアンスだったのかなんて、 結局のところ直接話を聞いたアナンダしか分からないのだから、 やれ大乗だ小乗だ更には宗派だなんて全くのナンセンスだと思うし、
そもそも仏教徒同士みんな仲良くしろよとか思うのですが、 ご当人達はそれぞれのアイデンティティを守らにゃいかんため、 そうもいかないのでしょう(仏教に限ったことではないが)。
あと思い出したのが、小学生の頃に読んだそこそこ長い『西遊記』の中に、 天竺から来た仏の使いが三蔵法師に対して 「お前が教えているのは小乗仏教だ!そんなものでは人民は救われない! 大乗仏教こそが本当の仏教だ!」というシーンがあり、 今思うと色々と問題になりそうなセリフではありませんか。
そういうわけで、三蔵法師が例のお供を引き連れ、 大乗仏教の経典を取りに天竺を目指すのが西遊記の話なのであります。
※実際の西遊記は三国志演義並に長いし、読んでいてビックリしたのが 「紅孩児は悟空を潰そうと泰山を落としてきたが、 悟空はそれを右肩で受け止め『これじゃバランスが悪いなぁ』と涼しい顔。 すると今度は須弥山を落としてきたが、悟空はこれを左肩で受け止めた」 みたいなトンデモ描写が色々あったり、三蔵法師と八戒が妊娠したりで、 読んでいて「どういうことなの」と思った。 あと仏教というより道教的な話が多いし、分かっていると思うが、中国に河童はおらんで。
こんな感じで、あんまり般若心経について語っていないけど、 知りたい人は自分で調べて頂戴(そんなんでいいのか)。
内容については以上で、 お次は著作権も無いことだし般若心経全文を載せてみます。
区切り位置が変かもしれないけど、その辺は勘弁して頂戴。
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是
舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界
無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
菩提薩タ 依般若波羅蜜多故 心無ケイ礙 無ケイ礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提
故知 般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪
即説呪曰 羯諦羯諦波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経
次回から、この訳の分からんお経について書いてまいりますが、 『釈尊のさとり』を読んでいれば、実践についてはともかく、 意味については結構簡単に分かります。
「空」とは何か?に続く。
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