第2章六節:解説まとめ『ニューアース』完全版

前回の記事:2章三節から五節

前回は「エゴの中身と構造」および 「所有物に自分を見出すという狂気」について書いてまいりました。

今回は2章六節で著者の体験談となっておりますが、 結構重要なことが書いてあります。

まぁ書いてある内容が重要、重要でないなんてエゴによる決めつけに過ぎず、 本当に重要なのは文字を超えたところにある、読み手の意識の変容なのですが。

2章六節 なくなった指輪 The Lost Ring

当節のサブタイになっている著者の体験談については、 特に難しいことが書かれておらず簡単に読めてしまうのですが、

この最期の数週間でエゴから解放された女性の話について、「他人事」として読んでいると、 見事に「へーそうなの。そりゃあ良かったね」 「良い話で感動しました」などの薄っぺらい感想でオシマイとなり、 意識の変容もヘッタクレもなく、相変わらずの「日常」という名の苦しみが続くわけです。

だから私は「本書を他人事として読むな。当事者として読め」と 何度も何度も言っているのであり、

「あなたはいずれ、それもたぶん近いうちに指輪を手放さなくてはならないことに気付いていますか? それを手放す用意ができるまで、あとどれほどの時間が必要でしょう? 手放したら、自分が小さくなりますか?それがなくなったら、あなたは損なわれますか?」

という著者のセリフなんて特に、当該女性だけに問いかけられた質問ではない、 まさに今、本書を読んでいる読者に投げかけられた質問であり、

加えて、この質問は「指輪」というモノ、所有物だけに限らず、自分の評判、地位、身体機能、人間関係ナド 全ての形に該当する質問であることに、読んでいて気付いているでしょうか?

もし本当に当事者として本書を読んでいるならば、 折に触れて上記質問と同じような自問をするのが当然であるし、 その自問によって、程度の差こそあれ、 当該女性のようにエゴから解放されているはずです。

これが「本書を当事者として読め、自分自身のこととして読め」の一例ですが、 このように当事者として読んでいると、 本書に記された内容や字面を超えた「何か」を感じ、 何かに気付くことができるのです。

これこそが本書の内容よりも重要なことなので、 実際にやってください。

2章六節 エゴはエゴに過ぎない

あと

という内容については、 当節に書かれている通りそのままの意味でとればよろしい。

これについても、1章で書いたし次回でも出てきますが、

「よーし、モノへの執着を断ち切ってエゴから解放されるぞ!!」 「エゴに気付いて悪いエゴや悪い考えをやっつけるぞ!!」

なんてやってもムダで、 逆に「エゴや思考から解放された将来の私」といった感じで エゴが強化されるだけだというのは散々書いてきた通り。

カギとなるのは、当節にあるように「エゴは善でも悪でもないただの無意識」なので、 あまりエゴや頭の中の声を重要視しないことであります。

と書いてあるように、エゴも思考も移ろいゆく形に過ぎないので、 「エゴや思考を殲滅せにゃ」ではなく、

単に「あ、この考えはエゴだ」「この振舞いはエゴだ」 「この声は私ではないな」だけでOKというか、 これこそがベストだということです。

そもそも、エゴや思考を攻略すべき敵とみなし、 エゴを滅ぼし思考を押さえつけようと戦々恐々とし、 「『いつの日か』エゴや苦しみから解放された、幸せになった聖者の私」 を夢見ることは、

丁度、某映画を見ている最中に「大変だあ!!」と叫び、

「もしもしアメリカ大使館ですか!?本国で殺人および誘拐事件が発生しています! 殺されたはずのベネット大尉が生きていて…ええ、ベラスケス大統領の暗殺を… 至急バルベルデ共和国と連絡をとってください!!」

と電話をかけるようなものです。

こうやって書くと非常にアホらしいし、 実際こんな電話をかける人なんていないでしょうが、 悲しいかな、「普通の人」どころか引き寄せや悟り界隈においても大多数がやっているのが、 これと同レベルのことなのです。

なので、

これら気付きによってエゴによるリアリティが段々と薄まっていくのですが、 実際に今気付かないと実感はできません。

以上、今回はここまで。

第2章七節から八節に続く。

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