前回の記事:第5章三節
前回は
「言語的もしくは非言語的な思考に身体が反応して感情が生まれ、 思考と感情の連鎖反応が起きて地獄と化す」 「エゴレベルでポジティブになってもムダ」
ということを書きました。
今回は四節とペインボディが登場する五節について。
まずはこれなのですが、
ライオンに子供を殺され復讐に燃えたバッファローがライオンの群れを襲い、
子ライオンだけを執拗に狙って殺しまくったというのを何かで見たことあるし、
象も家族の敵討ちで人間を襲うので、人間以外の生物にもエゴやマインドはあるカモあるんじゃないの、
というのが当節に対する私の感想。
ただ、これが人間の場合だと『ゴッドファーザー』の如く血で血を洗う抗争がずっと続くのでしょうが、 動物の場合だとバッファローや象が報復してハイおしまいだろうから、 やっぱり人間以外の生物は人間ほどエゴが発達していないのだろうし、
何より、伍子胥や曽我兄弟のような人間ならともかく、そんな立場にすらない「一般人」が、 日常生活における些細な下らないことで激しい感情を爆発させて、 その感情をず〜〜〜っと引きずっているのは問題ではないでしょうか。
※エゴには「下らないこと」とは思えないことが、 エゴが考えている「(実際は下らない)問題」自体以上に大問題。
カモの話は置いといて、五節は人間のお話。
担山が娘を担いだエピソードのように、 「状況をいつまでも手放せず、また手放す意志も無く、マインドに次々と状況を溜め込んでいったら、 一体どんな人生になるだろうか」という話で、以下のことが書かれています。
- 私の内に生き続ける記憶自体は問題ではない。 それどころか、記憶のおかげで過去や過去の過ちから学ぶことができる。
- 既に去ってしまった過去に関する思考に「たった今」完全に支配され、それが重荷になったとき、 その思考、つまり記憶が問題になる。
- 「記憶」から発せられる古い雑音による、過去に条件付けられた人格が私の牢獄となる。 「私の物語」が「私の考える『私』」となる。
- 「私の物語」、つまり「私が考えている『私』」は、頭の中の記憶だけでなく感情的な記憶、 つまり古い感情によっても構成されている。 殆どの人間はこれら記憶と感情で作られた不必要な「私の物語」を一生抱えて生きていく。
このように、古い思考とそれに対する古い感情に基づく苦痛の堆積物、 古い感情の雑音の集合、所謂「何の役にも立たないクソの山」が、ペインボディだというわけです。
このペインボディを持っていること、 さらにはペインボディの強弱については人それぞれで、 これだけならば生きていく上で何の問題もないのですが、
このように、「ペインボディ=自分」となったときに問題が起きるというのは、 6章の最終節である九節に書いてある通りです。
「こんなの最後の最後で書かずに先に書いておけよ」と思うのですが、 次節からはペインボディが引き起こす狂気について、 あれやこれやと色々書かれているわけであります。
以上、今回はここまで。
第5章六節から八節に続く。
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