前回の記事:第2章七節から八節
前回は「所有という頭の中のストーリーは私と何の関係もない」および 「もっともっとという欲望によりエゴは生き延びる」について書いてまいりました。
今回からは身体について。
身体を「これこそが俺自身だ!」と思っている人は多いでしょうが、 実はそうでなく、身体も前回までやってきたモノと何ら変わらないというお話。
では何で「身体=俺だ!(正確には「身体に関するマインド=俺だ!」)」 となってしまうのかというと、 9章の対話中に少し書かれているのですが、 身体に基づく知覚が限られているから、というのが一因ではないでしょうか。
以前の解説で散々書いてきた通り、 電磁波中の極限られた範囲しか認識できない目、 音波中の極限られたレベルしか認識できない耳等の各器官による知覚を、 「この世の全て」だとカン違いしてしまうため、 こんな有様になっているのだと私は思っております。
それはともかく、当節においては身体への同一化の例として
といったものが挙げられており、 この同一化によって多くの人が苦しんでいるとのことで、 わざわざ私の体験談を書かずとも、 読者の殆どに覚えがあることでしょう。
「自分にはそんな苦しみなんて無い!」 「自分はこの素晴らしい身体に劣等感など感じていない!」という 自信満々な若いイケメンや美人やマッチョの方々も、身体は必ず衰え滅びていくので、 その自信もどこへやら、結局は苦しむ羽目になるというのは当節や10章にある通りです。
まぁ、当節ひいては本書を読んでも、大多数の人は相変わらず
「自分は○○なのだから、『同一化』とやらがあってもなくても、苦しいのは当然じゃないか! この○○のせいで今までどれだけ苦しんだと思ってんだ!!訳の分からない気休め言うな!!」 (「○○」にはブス、ブサイク、ババア、ハゲ、デブ、ガリ、チビ、ビョーキetc.が入る)
と思っているのでしょうが、
それは一体誰の声なのか、 その「苦しいのは”当然”」というのは一体何が「当然」なのか、 そもそも、そのせいで苦しんだのは一体誰なのか、ちょっと観察してみればよろしい。
「私は苦しんではいけない」などと思ったり、 浮かんでくる思考を「これはいけない」と押し殺そうとしたり、 答えをすぐに出す必要は無いので、 ただその声を観察していると、 今までの苦しみとは異なる何かを感じることになります。
このように、 多くの人は自分の身体を「これは自分だ!」と同一化し、 その結果苦しみを生み出しているのですが、
だからといって「この身体は本当の私じゃないんだ!」 なんて思い込もうとしても無駄無駄無駄!というのは当節にある通り。
また、この際だから明言しておきますが、引き寄せ系でよくある 「本当の私は○○じゃないんだ!(「○○」に入るのは前半のと同じ)」 という無理やりの思い込みについても論外。
そんなの思い込もうとして思い込めるものでないし、 ○○だろうがその真逆である理想の私だろうが、 相変わらずエゴという形に囚われ「真実」を見過ごしたままなので、 結局は徒労に終わってしまうのです。
※意味不明なたとえだが、『デビルマン』のサバトにおいて気が狂ったフリをしたけど、 フリはフリに過ぎないので悪魔は憑依せず食い殺されました、というのと大体同じ。
話を本題に戻すと、身体という形があり、 その形を超えた、形を形たらしめている生命エネルギーである 「インナーボディ」を感じましょうというのが当節のテーマで、 その感じ方について色々書いてあります。
それについては当節を読んでもらえればOKなのですが、 頭で考えてもインナーボディが感じられないというのは当節に記載の通りで、
何と説明すれば良いか表現に困るけど、 「さぁインナーボディを感じるぞ!」と言語や思考で感じようとするのでなく、 腕なり腹なり肩なり、身体という形や五感を超えた何かに、 フッと注意を向けるみたいな感じでやれば良いです。
「インナーボディを感じて『いつの日か』身体の苦しみから脱出するぞ!」などと気張らず、 適当にインナーボディを感じていれば、「自分=身体という形」という呪縛にヒビが入り、 その結果何かが発現してくるのです。
以上、「あなたは外見では確かに○○かもしれないが、 本当はその外見や五感という形を超えた、 躍動する生命エネルギーである。これは物理学的にみても事実である」 とストレートに言えば良いのですが、
こんなのストレートに言ったところで気休めにもならないし、 「私は生命エネルギーです」なんて思い込もうとしても何の効果も無いので、 面倒な手順でそのエネルギー等を直に感じてみなさいというお話でした。
今回はここまで。次回で2章も終わり。多分。
第2章十一節から十三節に続く。
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