前回の記事:第8章六節から七節
前回は
「どんな状態からでも内なる空間につながることができる」 「正しい行動とは思考、つまりエゴを超えた行動」
ということについて書きました。
今回は「(ラベリング、ネーミング抜きで)ただ知覚する」と 「経験している主体は誰か」について書きます。
しつこいようですが、この辺の内容は「実践しよう」と思ってできることではなく、 気付きを重ねるうちに自然とできるようになることであります。
まずはこれ。「(ネーミング抜きで)ただ知覚する」が正しいタイトル。
場所だろうがモノだろうが人間だろうが対象が何であれ、 人が何かを知覚すると、即座に言語で名前を付け、 解釈し、何かと比較し、好き嫌い、良し悪しの決め付けをおこなうとのこと。
そういうネーミングや決め付けをやっているのはもちろんエゴで、 これが殆どの人間の「現実」であるし、 殆どの人間が思考の牢獄に閉じ込められているというのは書かれている通り。
じゃあどうするのかというと、やっぱり対策としては 「自分が無意識かつ脅迫的なネーミングおよび決め付けをしていることに気付く」 これしかありません。
特に、「病=悪、健康=善」「金をゲット=善、金を失う=悪」なんていう、 「そんなの当たり前じゃないか」と思えるようなものでも、 エゴ抜きにすれば「ただ起きているニュートラルなこと」なので、 自分がラベル貼りをして善悪の決め付けをしていると気付けば良いわけです。
これは別に「病気になって辛い嫌だ」「ソニー株で40万円スッて狂いそう…」 という思いや感情を抑えつけろというのでなく、 ニュートラルな出来事に対してレッテル貼りをしているから 結果苦しんでいることに気付けば良いのです。
こうやって、無意識のラベル貼りに気付き、 観察することを通して、ただ見たり聞いたり知覚していると、 最初は殆ど気付かなかった「平安」に気付くようになり、
意識の全てが思考に吸収されなくなると、 形の無い、無条件な、初期の状態がずっとそこにあったことが分かり、 これが「内なる空間」なのですが、 やっぱり実際に経験してみないと分かりません。
お次はその「経験」について。
視、聴、味、触、嗅といった知覚は経験だけど、 それでは「経験している主体は一体誰?」という話。
この問いに対してエゴは「それはもちろんこの○△□郎だ。この私、○△□郎が実際に知覚し経験している」 という回答をしますが、○△□郎もその肩書や所有物や経歴なども、 頭で考えて挙げられる候補は全て経験の「対象」であり、 経験の主体ではありません。
※例えば、急落する株価を前にして「お慈悲^〜」「やだやだ幽々子やだ」 「ぷももえんぐえげぎぎおもえちょっちょっちょっさ」と思うのが普通だが、 急落する株価は言うまでもなく、「お慈悲^〜」「やだやだ幽々子やだ」 「ぷももえんぐえげぎぎおもえちょっちょっちょっさ」およびそれに伴う感情、 ひいては急落する株価を見てそのように混乱している「私自身」、 そのどれもが経験の対象であり経験の主体ではない、ということ。
じゃあ経験の主体って何?という話なのですが、それは「あなた」もしくは「私」で、 じゃあ「あなた」もしくは「私」って誰?という話なのですが、それは「意識」であります。
それでは「意識」とは何?ということになるのですが、これについてはノーアンサー。
この質問に答えた瞬間、対象を捻じ曲げてモノとなってしまうので、 言語でもって答えることは不可能となります。
※「意識=たった今」と言えるが、「『たった今』って何?」という質問には言葉で答えられない。 まぁ「『たった今』とは『今の状況』ではない」というのは、この通り言語で表現できるが。
このように、経験の主体である形のない「私」は、言葉では表現不可能ですが、 直接に感じることはできる、私自身として意識を意識することは可能とのこと。
ただし、この世の大多数の人間は、 意識が相対的かつ一時的な思考、感情、経験に占領されて、 まるで夢の中にいるような状態になっており、 結果として形のない「私」を見失っているのが現状で、 この無意識状態からの脱出については、本書前半で散々やった通りであります。
以上、今回はここまで。
第8章十節から十一節に続く。
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