前回の記事:3章 私は誰か?
今回は4章について。
ここに公開しているメモと本書とを読み比べて分かったのですが、
メモというよりもむしろ、
本書の8割程度を翻訳したものになっていることに気付きました。
ただ、翻訳といっても、何とも適当で手前勝手な訳し方だし、
やっぱ英語の原文を読んだ方が直接心に響いて良いので、興味ある人は原文読んでください。
4章 AWAKENING 前半
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Only by awakening can you know the true meaning of that word.
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思考の中で自分を失う代わりに私が目覚めたとき、
私自身を思考の背後にある目覚めとして認識する。
思考は私の人生の主人の地位を失い、目覚めの召使いになる。
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目覚めとは、今(Presence)、思考の殻を抜けた意識、「たった今」のことである。
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目覚めとは思考が存在する空間のことであり、空間とは意識それ自身のことである。
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外部の人生の目的は変わるが、内なる人生の目的は唯一つ、目覚めだけである。
至極単純であるが、宇宙における全ての目的の本質である。
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内なる目的が外部の目的を満たし、真の成功をもたらす基盤となる。
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人類は苦しみを超越する運命にあるが、頭で考えても苦しみの超越なんて不可能。
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多数あるエゴのカン違いの一つに「私は苦しむべきではない」があり、
そのカン違いこそが、苦しみの根源になっている。そのカン違いのために、さらなる苦しみが生まれる。
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苦しみは意識の進化のために必要であり、苦しみこそが、エゴを焼き払う炎となる。
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苦しみに抵抗すればするほど、焼き払うエゴが増えてしまうので、
エゴを焼き尽くすのが遅れる。
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苦しみにお手上げ状態になる、
意識して苦しむと、エゴを焼き尽くす炎が勢いを増す。
苦しんでいる中で、苦しみの炎が意識の光となる。これが苦しみを意識に変える錬金術である。
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「俺が苦しむなんてとんでもない!」とエゴは叫んで抵抗するが、真実は逆説的である。
まずは自身の苦しみに対してYesということで、苦しみを超越することができる。
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エゴ的な思考や振舞いやドラマに目的があるならば、
次々と苦しみを生み出して最後にエゴを焼き尽くすという、
ジュラル星人の如き何とも間接的な目的である。
4章 AWAKENING 後半
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「いつか私は目覚めてエゴから解放される」こう考えているのは誰か?エゴである。
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エゴから解放のは大事ではなく小さなこと。
自分の内に思考や感情が生まれたとき、それに気付いているだけのことである。
それは「やるべきこと」ではなく、注意深く観察することである。
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この観察により、思考から目覚めへの変容が起き、
エゴの狡猾さよりも偉大な知性が私の人生で作動しはじめる。
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私は良い人間になろうと努力しても、良い人間にはなれない。
私の内に既にある善を見出し、その善が出現するに任せればよいのだが、
出現には意識の状態の変容が不可欠となる。
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「真実など探すな。意見なんて打ち捨てろ」私のマインドによる同一化なんて放っておく。
それにより、マインドを超えた「私であるもの」はひとりでに発現する。
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目覚めの本質の1つは、目覚めていない私を認識すること、
私ではなくエゴが考え、話し、行動していることに気付くことである。
その気付きが意識や目覚めを起こす。
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エゴという闇と戦って勝つことは不可能。意識の光で闇を照らす。私こそがその光である。
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私は人生の大半を、モノ、物質、思考など、「形」への強迫的な執着に費やしている。
エゴが求め手に入れようとするのは、エゴが感じることができない「存在」の代用品ばかり。
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私はそういった形をありがたがり、大事にするが、それらは全てエゴであると分かる。
しかも、それらエゴの執着は、実は形自体に対するものではなく、
形の中にある「私」という概念に対してである。
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なので、形の喪失を完全に受け入れると、エゴを超越し、
意識そのものである「私であるもの」が発現する。
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殆どの人間は、外部の世界の全ては崩れ去り
「私であるもの」と何の関係もない、ということに死ぬ直前まで気付かない。
死の直前になると、所有という概念が全くの無意味であったことが明らかになってしまう。
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人生における回帰の段階では、形の崩壊−老化、病、不便、喪失などの個人的悲劇が起きるが、
それらは精神的な目覚めの可能性を秘めている。形からの同一化を崩す可能性を秘めている。
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愛とは他の中に自分を認識することである。
そうすることで、他人の「他者性」というものは、
形の世界に付随したインチキだということが明らかになる。
以上、今回はここまで。次回は5章。
5章 インナースペースに続く。
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