『歎異抄』について語る9

前回の記事:『歎異抄』について語る8

今回は十二章と十三章で、何か色々書かれています。

まず十二章に書かれているのは「経典等の書物を深く学んでも無駄」だということ。

これは浄土真宗に限ったことではなく、小難しい本をいくら読んだり学んで知識を増やしたとしても、 増えていくのは煩悩(エゴ)だけなのであります。

深く学んだことがある人間にしか実感できないことだけど、学べば学ぶほど深みにハマっていく感覚というのは、 そこそこの大学に行っている人なら経験したことあるでしょう。

じゃあどうすれば良いのかというと、私の見解を書かせていただくと、 当サイトでも散々書いてきた通り「何もしない」「自分で気付く」しかございません。

丁度、カゼ薬をいくら飲んでもカゼは治らず、逆にカゼ薬を飲み過ぎたらえらいことになる、 カゼを治すには自分の免疫機能で何とかするしかない、免疫機能を向上させるにはリラックス、 つまり自力であれこれせずに今日のところは寝るしかないね、という感じなのであります。

ただ、「深く学んでも無駄」と言っているのが他ならぬ深く学んできた親鸞で、 これが学んでなけりゃただの負け惜しみやろ、なんて思ったりもしますが、 私も散々「天台宗の千日回峰行なんてクソ。ただの自慰行為で無駄無駄無駄」なんて言っちゃってるし、 無駄なことに変わりはないからまあいいでしょう。

十二章:レスバを避ける方法

そんな十二章に書かれているもう一つのことは「他宗派の人間とバトルするな」ということ。

争おうが争うまいが結局は阿弥陀如来の力で救済されるのですが、 生きているうちはなるべく争わない方がええやろということなのでしょう。

これは別に鎌倉時代の宗教に限ったことではなく、 現代の宗教どころか趣味の領域(趣味も宗教も似たようなもの)でも同じこと。

一例を挙げると、この前見かけたから槍玉に挙げちゃうけど、「女がドン引きする趣味」で1位になっていた某趣味について批判されても、 「面白いんだよなあ。女友達と話してる感じがして。これ嫌ってるやつは女と話したことないんだろな」 などというミエミエの嘘をついたり聞き苦しい言い逃れをしたりするのではなく、

「私のような煩悩にまみれた、つまらない無知な人間は、Vtuberが喋っているのを見てスパチャするのがこの上なく楽しいのであります。 優れた方々が『Vtuberなんてくだらない』『あんな水族館の海藻みたいにユラユラ揺れてるの眺めて何が楽しいのか』と思われても、私にとってはこれ以上ない素晴らしい生きがいでございます。 もし他にどんなにすぐれた趣味がございましても、私には及ばないものばかりですから、とてもついてはゆけません。 私にとっては、この人生において、 Vtuberのライブや切り抜き動画を見たりスパチャすることだけが希望でございます。どうぞお妨げなきよう願います」

と親鸞の言葉通りに言っておけば、相手も「あ〜そーなの」「それならしゃあないわ」となり、 それ以上のレスバを防げるじゃございませんか。

なのでレスバを避けたい人は、この構文を頭に叩き込んでおき、いざという時スラスラ出るようにしておこう!

で、本文でも学問の方に話が戻っているので学問に戻すと、 「学問をしなければ意味がない」と他人を脅す悪魔のごとき行為については、

学問だけに限らず、 「修行しなきゃ意味がない」「魂のステージを上げなければ意味がない」「お布施をしなきゃ意味がない」 「法名(戒名)を付けなきゃ意味がない」と、カルトを含む既存の宗教に関する大体のことに当てはまるんじゃないの。

十三章:「本願ぼこり」と「業縁」について

お次は「本願ぼこり」についてで、 「本願ぼこり」というのは「どんな人間でも救済されるんだから悪いことしてもいいんだ!(*^◯^*)」という意味の主張。

結論からいうと、この「本願ぼこり」を主張する人間もそれを批判する人間も同レベル、 どっちも煩悩まみれの凡夫に変わりはないということ。

つまり、「どんなに悪いことしてもいいんだ!」も 「救われるためには善人にならなければならないんだ!」も同レベルだということであります。

また重要なのは、そもそもの話、「良いことをしよう」「悪いことをしよう」 「善人になろう」「悪人になろう」などと思ってできるものではない、全ては「業縁」の賜物であるということ。

親鸞「唯円、ワシの言うことを聞けるか」
唯円「ハイ!何でもお聞きいたします」
親鸞「ん?今何でもするって言ったよね?じゃあお前、今から人を1000人ばかり殺してこい」
唯円「えっそれは…」

という会話から続くように、唯円が殺しをためらったのは、別に唯円が善人だからではなく、 そういう業縁の下に生まれたからとのことで、 後の顕如なんかは1000人どころか敵味方合計したら何万人と殺しているじゃございませんか。

これも別に顕如が極悪人だからではなく、そういう業縁の下に生まれたからで、 阿弥陀如来はそういった業縁を超えて救済なさるというのが親鸞の言いたい所さんなのでしょう。

要は「業縁」とは現代でいう「親ガチャ」みたいなもんで、業縁故に罪を犯した人を謗るというのは、 成金の家に生まれたボンボンが貧乏人の家に生まれた人間に対して「貧乏なのは努力が足りない自己責任だ」 と言っているようなものだということであります。

まあ業縁だろうが何だろうが、現代日本では刑法に抵触する行為は刑法に沿って裁かれるけど。

以上、何かよく分からん譬えだけど、御仏の導きによってなるようにしかならないということで、今回はここまで。

歎異抄ぉ^〜(業縁な挨拶)

次回の記事:『歎異抄』について語る10

生きる上で大変ためになる記事一例

引き寄せに関する大変素晴らしい記事一例

...