『歎異抄』について語る8

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今回でやっと半分。

ここから著者であろう唯円の「ああ歎かわしい」の連発が始まるのですが、

「般若心経は駄目!みんなで正信偈やら無量寿経やらを唱えよう」「高い金払ったら格調高い法名付けたるで」 という浄土真宗の現状は「ああ歎かわしい」にならないの?しつこいようだけど。

そういや西本願寺の公式サイト見たら「携行本尊」なる阿弥陀仏カードが販売されていて、 1枚10,000円だったのでたまげました。

「浄土真宗では御朱印帳も御守りも売らない」とか言っておきながら パンチパーマのオッサンのプラ製カードを1万円というボッタクリ価格で売る、 これを歎かずして一体何を歎くというのでございましょうか。

善光寺の阿弥陀如来は金属製で600円(確か)、法善寺の不動明王も金属製で500円なのに なんでプラ製で1万円なの?

誰か説明してくれよ!

十章:念仏とはあれこれ論じるものではない

そんな私のぶっちゃけ話は置いといて十章。

出だしから

念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき。

と書いてある通り「人知を超えた念仏について小賢しい人知でもってあれこれ議論しても無駄」 であるのですが、以前書いた「尾ヒレ」の話のように、あれこれ議論したくなるのが人情というもの。

なんでそんなことになるのかというと、 やっぱり我々人間が煩悩まみれの凡夫だからでしょう。

なので凡夫は凡夫らしく、いっそのこと開き直って議論しまくっちゃえばいいんじゃないでしょうか。

冒頭で述べた西本願寺の阿弥陀仏カードについても 「任天堂だってポケモンカードで儲けとるのに、ワシらが阿弥陀仏カードで儲けて何が悪いねん!同じ京都やろが(意味不明)」 と開き直っちゃえば良いのに、お上品ぶるからおかしなことになるのでしょう。 (ちなみに株式会社ポケモンの本店所在地は六本木)

まあこんな風につべこべ抜かしても、最終的にはみな阿弥陀如来のお力により 救済されて浄土へ参るのでオールオッケーなのであります。

十一章:阿弥陀仏の他力は人間を超越したもの

お次はこれ。

頭が良かろうが悪かろうが、良い行いをしようが悪い行いをしようが、他力に任せようが自力で何とかしようが、 結局最後は阿弥陀如来のはたらきによって往生し、浄土に行けるというもの。

頭の良し悪しというのは次の十二章にも書かれているので割愛しますが、 「良い行い悪い行い」なんていうのは、ちっぽけな煩悩まみれの凡夫による「良し悪し」の判断だというのは 何度も書いている通り。

また、ひたすら南無阿弥陀仏と唱えて浄土へ行こうとするのは「自力」であり、 阿弥陀如来の「他力」を全く信頼していない人間がおこなうことなのであります。

でも結局のところ阿弥陀如来に救済されるのだから、 前半の議論と同じく、「良し悪し」の判断すりゃいいと思うし、ひたすら念仏唱えたい人は唱えてええと思いますけどな。

「念仏を唱える」という行為がやりたくてやっているだけならいいけど、 「やらなきゃいけない!」などという強迫観念に代わったら止めれば良いと思うで。

別に念仏に限ったことじゃないけど、 強迫観念に駆られてやることなんてロクな結果になりませんからな。

まあこの「良いと思うで」「ロクな結果にならない」てのも、煩悩(エゴ)の判断によるものだけど。

以上、今回はここまで。

歎異抄ぉ^〜(人智超越な挨拶)

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