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半分もいってないのに早くもダレてきたこのコーナー。
今回取り上げますが、全てをお救いくださる阿弥陀仏の本願というものを見聞しても、 「早くもダレた」「めんどっちい」なんて思ってしまうのは煩悩のおかげで、
そういう煩悩を持った悪人こそが、真っ先に阿弥陀仏に救われる対象だというのは親鸞が言ってる通り。
あとしつこいですが、阿弥陀仏というのは「パンチパーマの小太りのオッサン」などではない、 ということにはくれぐれも注意してください。
そんなわけでまずは八章。
念仏は自発的におこなう修行でも善いことでもない、「非行非善」のものである
なんて書いてあります。
念仏が人間の「善悪」という小賢しい判断を超えた絶対的なものであるというのは、 七章にも書いてあった通りであり、「非善」となるのはお分かりでしょう。
あとは「非行」についてですが、 「非行」というのは別にシンナー吸ったり盗んだバイクで走り出したりすることではない、というのはお分かりの通り。
じゃあ何なのかというと、 念仏とは「唱えよう」と思って唱えるものではなく、阿弥陀仏のはたらきによって自然と発せられるものなのであります。
つまり、「行為」ではないので「非行」ということ。
そして、念仏だけに限らず全ての行為が、自分の意思や決意などではなく、 阿弥陀仏の力によっておこなわれるものなのであります。
「嘘だあ」と思われるかもしれませんが、ぶっちゃけてしまえば、その「嘘だあ」という思考ですら、 自分自身で発したものではなく、阿弥陀仏の力により発せられたものなのであります。
阿弥陀仏を宇宙意識に置き換えて「全ては宇宙意識のなせるわざである」なんて書くと 何かニューソート系みたいな感じがしますが、これもう分かんねぇな、お前どう?
なので、「自力」ではどうにもならないため、阿弥陀仏の他力におすがりするしかないのであります。
お次は冒頭でも言及した九章。
著者の唯円が「念仏しても湧き上がるような感謝の気持ちが起きたりしないし、ちっとも嬉しい気分になりません」 と親鸞に白状したところ、親鸞は「あーあたしもー」と応えたとのこと。
カルトの教祖なら「それはお前の信心が足りないからだ」とか 「お前の魂のステージが低いからだ」とか言うところなのでしょうが、 流石は親鸞、カルト教祖とは違うなあと思えるエピソードではないでしょうか。 (親鸞は良かったのだけど顕如あたりでカルト化しちゃった。やっぱ世襲制はあかんのかな)
じゃあ念仏を唱えて感極まるようにならなきゃいけないのかというと、 全くの逆で、そんなことしなくてよい、そのままでOKなのであります。
何でかというと、
念仏しても感激しない→我々が煩悩まみれの凡夫だから→ 阿弥陀如来はその「煩悩まみれの凡夫」こそを真っ先にお救いくださる →なので、念仏して感激する方がおかしなことである
という理論のためで、煩悩まみれの凡夫のままで良い、 いや凡夫のまま「の方が」良く、修行して清廉潔白になろうなどとは蛇足も蛇足、余計なことなのであります。
この理論が正しいのか正しくないのか、真実は私には分かりかねますが、 「絶対間違い」ということは証明できないので、まあそうなのかもしれませんし、
親鸞の言う通り、生きている限り煩悩(エゴ)というのは絶対ついて回るので、 生きている限り煩悩を消すことなど絶対できない、 他力にすがるしかない、お手上げするしかないのが現状でございましょう。
これは別に鎌倉時代に限ったことではなく、現在の引き寄せ系にも当てはまることで、 「良い気分になれば良いことが起きる」だの「欲しいものに集中していれば欲しい物が手に入る」 なんて聞いても、ちっとも気分が良くならないのと同様であります。
引き寄せ信者諸君、息してる? 君達が望むものなんてただの煩悩、エゴの妄想に過ぎないんやで。 よかったじゃないですか〜真っ先に救われる対象やで君らは。
ちょっと話が逸れたけど、 煩悩まみれの凡夫が真っ先に救われるからといって、 わざと悪いことをしたりするのはNGだというのは、 当時から何度も言われていること。
以上、今回はここまで。
歎異抄ぉ^〜(凡夫な挨拶)
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