前回の記事:『歎異抄』について語る5
早いもので今回で6回目。
最初はカルトには気をつけよう!みたいな感じで進めるつもりが、 「正信偈なんていらない。親鸞が唱えろと言ったわけじゃあるまいし。あんな雑記より般若心経の方がいい」とか 「金額に応じて変わる法名(戒名)なんてカルトそのもの」とか、 浄土真宗に喧嘩を売るようなこと書いているじゃございませんか。
なんということでしょう、こんな馬鹿正直に書いてたら大谷本廟にある爺さんと婆さんの骨が投棄されちゃうよ〜 (いや投棄されんやろけど)
でも私が好きではない(婉曲)天台宗だけでなく、 真宗だろうが真言宗だろうが臨済宗だろうが曹洞宗だろうが形骸化した宗教なんて皆同じやね、 フレッシュなのは始祖の代、もしくは一休さんみたいなのが出てきたときだけかと思ってしまいますわ。
私は実際一休さんに会ったわけじゃないから知らんけど。
そんなわけで六章はその「同じ」について。
とのことで、浄土真宗系のカルト教団はこの六章をどう解釈しているのか、ちょっと知りたいような 知りたくないような気がします。「我が教団を抜けた奴は地獄行きだ」とか言ってたら笑えるわ。
まぁ、これはカルトに限ったことではなく、全ての人間関係やコミュニティに当てはまることだけど、 出会いや別れなんて人間の力ではどうすることもできないので、引き戻そうだなんて女々しいことは考えず、 阿弥陀仏におすがりするしかないのであります。
あと、貴人には貴人の元素、賤人には賤人の元素、金持ちには金持ちの元素、貧乏人には貧乏人の元素があるわけではなく、 皆等しく同種の原子と分子から構成されているので、「皆同じ」というのは化学的に考えれば合っているのではないでしょうか。 親鸞はそんなこと言いたいのではないのだろうけど。
お次は「念仏とは絶対的な道であり、何ものにも妨げられるものではない」というもの。
一応注意しておくけど、念仏を「絶対的な善」などとは言っておらず、 善悪などという人間の小賢しい概念を超越した、絶対的なものこそが念仏の道なのであります。
なので「そのまま」念仏すればOKで、やれ「心を入れ替えよう」「品行方正になろう」などという 「邪なこと」を考えなくてよいのであります。
まあこの辺は当サイト悟り系のコーナーで散々書いてきたことだから、 その辺を読んできた人ならお分かりでしょう。
ここまで好き勝手なことを書いてきて、これからも書いてまいりますが、 こんな好き放題書いていると「お前に仏教を語る資格があるのか」という声が聞こえてきそうであります。
そんな声は実際には聞こえてないのでただの被害妄想だろうし、 そもそもの話、仏教を語る資格なんて坊主に限らず誰にでも、そこいらにいる子供にもあると私は思っているのですが、
昔は(現代でも?)「印可状」がどうのこうのと下らないシキタリがあったので、 その印可状みたいなもんを見たけりゃ見せてやろうじゃございませんか。
成績表の下から5番目のところに「仏教概論」て科目があるだろう? これこそが東大イン哲(東京大学文学部インド哲学研究室)の授業なのであります。 (優じゃなくて良というのが奥ゆかしいけど。もっと真面目に受けていれば良かった)
知らない人が多いだろうから説明するけど、 東大のイン哲というのは坊主界隈ではエリート中のエリートが学ぶ場所であり、 その威光は片田舎の坊主にまで行き渡っているのであります。
そのイン哲で仏教の基礎を学び、はからずも良の成績を修めた私ならば、 ちょっとは仏教について語る資格があるってものでしょう。
そういや成績表や卒業証明書で思い出したけど10年くらい前、 ネット上でどっかのカルトと別のカルトが罵り合っていた際、 片側が「私の知り合いは○○様の功徳により東大に合格した」 などといって「東大の成績表」を開示していたのですが、
その開示された成績表が私が見たこともないもの、つまり捏造された紛い物で、 「これは君、捏造じゃないか」とツッコミを入れそうになったのですが、 そんなことして絡まれでもしたらかなわんので止めておきました。 ていうか本人が合格して開示しろよ。もう片方もこんなの捏造と見抜けよ。
まぁこんな紙切れで仏教を語る資格がどうのと、全くもってバカバカしい話でございますが、 上記のカルト同士の争いのように、 こういうのが大好きな手合もいる世の中なので、バカバカしいのを承知で出してみたで。
丁度一休さんが法事に招かれた屋敷に普段着で行ったら門前払いをくらい、 「大袈裟」を着て行ったら御丁寧に迎えられたエピソード、 もしくは印可状を焼き捨てようとしたエピソードみたいなもんですな。
以上、余計なこと書いたけど今回はここまで。
歎異抄ぉ^〜(絶対的な挨拶)
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