前回の記事:『歎異抄』について語る4
前回は「悪人正機」とかについて書きました。
何度もしつこく注意しとくけど、
ということはちゃんと覚えといてください。
第四章は慈悲について。
自力による慈悲で他人を「根底から」救おうとしても救えない。阿弥陀仏の他力、お慈悲によって初めて救うことができる
となっており、「自力で悟ろうとしても思い通りに悟れない」という第二章と同じニュアンスとなっております。
「そんなことはない!私の寄付金やボランティア活動で恵まれない可哀相な人々が救われた!」 なんて声が聞こえてきそうですが、 私も月5,000円の寄付を1年以上続けたことあるから分かるけど、 そんなものはただの自己満足で、その「恵まれない可哀相な人々」の人生全てを根底から救うなんて無理な話でございます。
なので、阿弥陀如来のお慈悲^〜を信じ、念仏してこそ他人を根底から救うことができる、というわけなのですが、 「じゃあ目の前に飢えた人がいても念仏唱えりゃ腹が膨れるのか」という馬鹿な質問が来そうですが、 そういう場合はおにぎりの一つでも分けてあげれば良いでしょう。
そういうアホな質問がくるのを見越して、 五木寛之氏も「自力の慈悲にたよることだけでは十分ではない」なんて追記されているのでしょうし、 そもそもの話、世の中にはそういう馬鹿が多いから『歎異抄』が書かれることになったのでしょう。
お次は父母の供養について。
供養という言葉、元々は仏様とかにお供物をささげる行為で、 ゴータマ・シッダールタが亡くなる際も 「私にとって最高の供養はスジャータとチュンダの供養だった」とか言ってた(伝聞)のに、 いつの間にか死人の冥福を祈る意味になっております。
それはともかく親鸞曰く、「全ての生きとし生ける命は等しく流転し、 阿弥陀如来の本願により皆救われるので、特段死んだ父母の供養をしたことなどない」 とのことで、何かワンネスみたいな話になっておりますし、
前章と同じく「供養しようにも自力で供養などできない」なんて書かれております。
これは父母に限らず、爺さん婆さんだろうが水子だろうがペットだろうが全て同様なのでしょう。
あと、毒親育ちで親の冥福なんて祈りたくないという人は、 親を許さなくても良い(というか許そうが許すまいが自力では変わらん)、そのままでよいので、 親を恨んだまま親のためでなく自分自身のために念仏すればOKでしょう。
供養で思い出したけど、浄土真宗では水子供養やらないし、お守りも御朱印帳も無いと聞いたことありますが、 確かに京都時代に西本願寺行っても東本願寺行っても、 大阪の北御堂でも南御堂でもお守りや御朱印帳の類を見たことありませんわ。
阿弥陀如来の本願によって救われるのだから、お守りも御朱印帳も不要というスタンスなのだろうけど、 それなら戒名(法名)も止めてくれない?
高い金出して法名付けられることと阿弥陀如来の本願は関係ないやろ、と思ってしまうのは私だけではないはず。
うちのジジイの葬式の時なんて大金を積んだからか、法名の頭に「○○院」なんて御大層なものが付いてたけど、 金額で法名が変わるなんて、お守り御朱印帳水子供養と同レベルかそれより酷いじゃないすか。 ダブルスタンダードにも程がある。
ちなみに私は、法名は島田裕巳の本を参考にして既に自分で付けております。
皆も戒名(法名)くらい自分で考えよう!
以上、今回はここまで。
歎異抄ぉ^〜(お慈悲な挨拶)
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