『歎異抄』について語る11

前回の記事:『歎異抄』について語る10

ダラダラ続けてきたこの解説も今回を含めてあと2回(多分)。

浄土真宗がこれだけ広がったのは、「阿弥陀仏の御力におすがりする」という教えが 百姓でも理解できる程シンプルだからなのでしょうが、

シンプルすぎる故に坊主が教えを曲解して好き放題していたので こんな『歎異抄』なんて書物が世に出、 果ては百姓を統治するための道具と化してしまったのだろうなあ、 なんて思ってしまいました。

やはりこの辺も『かもめのジョナサン』4章に書いてある通りですな。

十六章:回心(えしん)と自然(じねん)について

そんなわけで16章。

「吾日に吾が身を三省す」なんて言葉がある通り、 人は毎日反省したり悔い改めようとするのだけど、 浄土真宗において反省、つまり「回心」は一度しかないとのこと。

それは「自分で何とかしよう試みたり思い悩んだりする『自力』をあきらめ、ひたすら『他力』におすがりする」 ことだけだというじゃございませんか。

そして、その一度きりの回心をおこなうと、自然と念仏が口をついて出てくるとのこと。

ただ、私が思うに、「自力を捨てて他力にすがろう!」という決意も一つの自力、 というか下手すると単なる強迫観念になりかねないし、

9章にあったように、親鸞レベルの人間でも「念仏唱えてもええ気分にはならんで」なんて言っているので、 やれ自力だ他力だとあまり拘らない方が良いと思います。

むしろ、こんな風に考えたりおこなったりしていることこそが、 「阿弥陀仏の他力によるもの」とみなした方が気が楽になるってものでしょう。

十七章:辺地(へんぢ)って何だ?

お次は辺地について。

「辺地」で検索するとカルトどころか浄土真宗関連の情報すら出てこず、 過疎の話ばかり出てきますな。もう終わりだよこの国(迫真)

そんな戯言はともかく、浄土にも辺地があり、信心の欠けた者、つまり阿弥陀如来の他力を信じられない者は 一旦浄土の辺地、つまり過疎地みたいなとこに飛ばされ、500年後に浄土に招かれるとのこと。

もう「なんかそいういうデータあるんですか?」としか申し上げようのない話で、 何か幼稚園児が考えたみたいな話やな、と思ってしまいます。

こんなん考える方も考える方やけど信じる方も信じる方や、 情報網や科学が発達していない鎌倉時代だからこそ上手くいったのでしょう。

まぁ、情報網や科学が発達している現代でも、カルトにハマる人間はハマるので、 何とも言えないところさんですが…

これも前章の「自力他力」同様、 いちいち地獄だ辺地だ500年だと拘らずに「死んだら皆浄土に行けるんだ!」くらいの心持ちで充分でしょう。

以上、今回はここまで。やっと次回で最終回。

歎異抄ぉ^〜(自然な挨拶)

次回の記事:『歎異抄』について語る12(最終回)

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