前回の記事:『私は誰か?(Who am I?)』その3
前回の記事で「行間を読み取るには苦しみ続ければよい」と書きましたが、 他にもあり、それはやっぱり「繰り返し読む」というものでしょう。
「読書百遍意自ずから通ず」というのはあながち間違いではなく、何度も読んでいたら何かみえてくるものです。 言葉で説明するのは難しいけど。
まあ手段なんてものは人の数ほどあるものなので、あれこれ乗り換えたり他人の意見に左右されず、 自分にしっくりくる手段でやるのが一番ですな。
第5問の回答は「ないだろう」の一言で終わり、次の第6問で理由が書かれております。
私の感想としては、この一連のやり取りだけだと全てかゼロか、 100%か0%かという「認知の歪み」状態になりドツボにはまるので、 この問答に限らず本書自体をあまり重要視しないことが肝心、だということ。
私にとって、ラマナの、自己検証の素晴らしいところは、『 あなたがしていることすべてを、止める』というところです。 概念化することを止める、なぜなら、神話は概念があるところに現れるからです。概念なしには、神話は現れません。
私たちは誰もが物語を持っています。誰もが、物語の中に住んでいます。
ところが、それがいったん神話化されると、真理とは何かというゴールとなります。
このようなことがラマナの場合にも起こりました。
人々は、彼のことを、内側で常に慈悲深く、いつも幸せな人間であると思っていますが、それは間違いです。 彼も人間でしたから、機嫌が悪いときもありました。
機嫌が悪いというのは、悟りという神話には当てはまらないと人々は思うわけです。
そしてラマナは、悟りそのものとあなたを切り離すのを止めるようにと言っています。
私たちが、あらゆる概念や神話のすべてを、進んで手放したとき、「ここに在るものは何なのか」がわかります。
というわけで、私が上で述べた「重要視しない」というのは、 この引用文の「概念化することをやめる」とほぼ同義であり、
もっと簡単に言えば、本書を読んで「真我を実現させるにはどうすればいいんだろう?」 「悟って全ての苦しみから解放されるにはどうすればいいんだろう?」 などと、足りない頭であれこれ考えるのをやめろ、ということです。
というか、覚者だろうが覚者でなかろうが、人間と人間がコミュニケートするには、 「言語」という極めて限定された道具を使用しないといけないから不便この上ないわ、 何とかならんのかと思う今日このごろでございます。
ここでは蛇に酷似したロープの譬えが回答として書かれていて、
「ロープをロープだと認識しない限り、ずっとロープを『蛇だ!』と思ってしまう」
というシンプルなものになっております。
他に例えるなら、
映画を映画だと認識せずに現実だと思い込んでいると、 『コマンドー』『プレデター』さらには『イレイザー』を見て「大変だあ!」と仰天し、 アメリカ大使館に電話するようなものである、
そんなアホなことする奴がいるのかと笑うかもしれないが、 所謂「普通の人間」が普段からやっていること、 「現実」に対して喜怒哀楽ナドの反応をしていることも、この「気違い沙汰」と全く同じである。
と以前書いた通りです。
こういうことを書くと賢明な読者なら分かってくれるのですが、 読解力および理解力のない人間は「そんなこと言ったって、現実は現実じゃないか」 なんて言いいます。
こういう人間に対しては、 その「現実は現実じゃないか」と思っているのは一体誰ですか? それが分からないならこんなサイト読むのをすぐに止めて、YouTubeで某メンタリストの動画でも見ていなさい、 としか答えようがありません。
こんな感じで、じゃあどうすればいいのかは次回以降おいおい語ってまいります。
次回の記事:『私は誰か?(Who am I?)』その5
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