前回の記事:『私は誰か?(Who am I?)』その13
長々とやってきた当解説も今回で最終回。
結局ラマナはこの冊子で何が言いたかったのかというと、
「私は誰か?」と問い続けなさい
ということで、他のことは頭で理解しようとしたり覚えても無駄、分かるときがきたら分かる感じです。
「真我以外を求めないことが無欲=智慧である」というのが回答。
ただこれを頭で考えると「俺は真我以外求めないぞ!」なんてやっちゃって、 無欲とは程遠いことになるのは皆さんお分かりの通り。
これならまだ「金が欲しい」「名声が欲しい」「女が欲しい」「男が欲しい」「太いシーチキンが欲しい」 等の欲望があることを素直に認めた方が何万倍もマシでございます。
※そういや下火になったと思っていた淫夢界隈だけど、 いつの間にやら「ダディv.s.島田部長」みたいな対立構造ができ上がっていたのには驚いた。 思想矯正施設って何だよ。
あと、「真我を決して離れないこと」なんて記述が本問だけでなくちょくちょく出てくるけど、
「どんなことをすれば、本質から逃れることができるのかなあ?」
「本質から離れられるのかどうか、君は自分で見いださなければならないね」
(ガンガジとの対話「私をやめるのは可能でしょうか/私を引き起こす為に一体どんなことをやっているでしょうか」より)
というラマナの直弟子の言葉の方が私はしっくりきますし、そういうことやぞ。
回答は冊子に書かれている通りですが、
「真我のなかに心をとどめておく」ために何をすれば良いのか分からない人も多いでしょう。
その答えはシンプルかつ明快で、「なにもしない」これに尽きます。
ところがある時パパジに、自由になる為にはどうしたら良いのかと尋ねますと、 彼は「なにもするな」と言ったのです。
「えっ? どういう意味? なにもするなって?瞑想や、マントラを唱えるというような、ある種の訓練以外のことはするなという意味ですよね?」 その頃の私は、瞑想の他にマントラも熱心に唱えていましたから、 私がそのように尋ねると、パパジは「なにもするな。君がやっていることのすべてをやめるんだ」と言いました。
そう指摘されると、見えてきたことがありました。 そういえば私は、瞑想を“やって”いました。
つまり、瞑想している時、「今日の瞑想はうまくいったわ。」とか、 「いつもはもう少しちゃんとやっているのに、今日は全然だめだわ」という具合に、 うまく行ったときは至福で満たされましたが、うまく行かなかったときはそうではありませんでした。
明らかに、自分の本質を得る為に、「私」が「何か」を「やっている」のでした。
パパジは、世界中の国々からやってくる、瞑想の達人たちに会っていましたが、 「真実を得る為に重荷を作り出しているだけだから、努力をするのをやめなさい。全部忘れてしまいなさい」と私に言いました。
「君は何かを“得よう”としているね。ということは、本当の自分自身を、本質とは別物だというように考えている訳だよ。 本来の自分自身を見いだす為に、何かをしなければならないというのは大間違いだ」と。
パパジが、身体や精神や感情、そして世界に対する瞑想の効用を否定していたという訳ではありません。 彼は「真理はある特定の状態の中にしか存在しない」というように、私たちが限定してしまっていると指摘したのです。
瞑想の状態にあるときだけ真理が存在する、と限定すると、私たちは真実を見失ってしまいます。
(引用元は前半と同じ)
まあこんな感じで、文章で表現してもそれを読んでも、 頭で満足している限りは相変わらず苦しみ続けることになるのですが、 それはそれで良いでしょう。
回答の原文をそのまま載せると
Inquiring into the nature of one’s self that is in bondage, and realising one’s true nature is release.
ということで、頭で「じゃあ自分の本質に気付くぞ」とやっても無駄だというのは散々書いてきた通り。
以上、本解説は終わり!
詳しく解説できるところはもう少し詳しく解説すれば良かったと思ったりもしますが、 そういうのは各自が見出すものなので、このくらいで丁度良いとも思いつつ、今回はここまで。
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