許容し可能にする術:解説赤本2021

前回の記事:幸せの正当化に気付く

今回からPart4の「許容し可能にする術」について。

初めて読んだ人は「何だこりゃ」となるだろうし、 かくいう私も「何だこれ意味不明だよ」という感想でした。

それもそのはずで、本章は引き寄せ系の本だけ読んでいても意味不明で、 ニューアースとかアドヴァイタとかそういう系統の本を読んで、そして実践して 初めて理解できるようになる章なのであります。

仏の境地

で、「許容し可能にする術」って一体何?という話なのですが、私なりにいえば

たとえ他者がどのように振る舞おうとも、それどころか、たとえ今、どんな出来事が起きても、 私の境遇や身体や思考がどんな状態であるとしても、 私は自分が経験したいことに関心を定めることができる。 自分に嫌な気分をもたらすことに関心を定めるほど愚かではナイ。 なぜなら私は反応ロボットなどではなく、創造者だから。 この世界は画一化された世界ではなく、多様な世界だから。 このような、「拡大した自分」「宇宙」とのつながりを維持する物事の見方を探す術。

という意味不明な長い説明になるのですが、もっと簡単にいうと

たった今、何が起きようが、それを受け入れよ

ということになります。

本書には「他人」についてしか書かれていませんが、 他人だけに限らず、自分に起きた出来事、自分の体調、 さらには自分の思考や感情も「許容し可能」にしようというのが私の考え。

この辺は散々ニューアースとかの記事に書いているので詳しい言及は避けますが、 ニューアース7章8節の白隠禅師のエピソードなんかが参考になるでしょう。

※ただ、これと「良いことを引き寄せる」とどういう関係があるのかは知らない。 本章を読むに「これ以上悪いことに関心を向けないようにするため」のようだが、 こういう境地になったら「何を引き寄せようが別にいいじゃん」となったりするので、 何か浅いなあ、とは思う。

あと、こんなこと書くと、 「じゃあ他人の言いなりになれというのか」「殴られたらそれを受け入れろというのか」 なんて質問が必ず出ますが、別に反対の意を表明してもいいし、 なんなら相手のパンチをさばいて殴り返してもいいんじゃないでしょうか(まずいけど)。

説明にしくいけど「何かとんでもなく間違ったことが起きた」と狼狽せず、 ましてや他人をコントロールしようとせず、たった今起きたことと一つになれ、ということです。

たった今だけでいい

さらに、こんなこと書いていると、 「こんな嫌な状況、いつまで耐えなきゃいけないんだ!」 という声が聞こえてきそうですが、 それに対する答えは「たった今だけでOK」でございます。

『The Power of Now』の2章にある通り、

ということであり、

「たった今、自分が思考の奴隷になっていることに気付く」 「たった今、思考が嫌な状況、嫌なこと、嫌な奴を生み出していることに気付く」 「たった今、全てと調和する」

ことで、本章でいう「許容し可能にする者」かそれ以上になることができるのであります。

この辺は実際に思考の外を垣間見ないと理解できないですが、 一瞥できれば、引き寄せ以上に何か変わると私は確信しております。

あと、引用3行目の「今の状況をまるで自分が選んだかのように受け入れること」は、 本書で頻繁に出てくる「全部自分が引き寄せたと思え」に似ております、 というか一緒でしょう。

以上、本章の「許容し可能にする術」というのは引き寄せ系よりもむしろ悟り系の領分だし、 本書は思考の檻から脱する方法が一切書かれていないため読んでも「許容し可能にする者」にはなれないし、 そもそも「許容し可能にする者」になったからといって良いことばかりは起きない、 ということでございました。

今回はここまで。

本章についてこれ以上書くことはないので、次回はPart5です。

節目ごとの意図確認に続く。

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