前回の記事:『歎異抄』について語る2
今回から歎異抄の本文について色々書いてまいります。
前回、前々回で申し上げた通り、 五木寛之訳『歎異抄』を元に私の感想を垂れ流していくだけとなっておりますので、 「お前はけしからん、罰当たりだ」などと抗議されても困ります。
そもそも仏様は罰を当てないし、万が一仏様が罰を当てるのだとしても、
本来人を苦しみから解放し楽にするための教義を捻じ曲げ、経文やら戒律やらを粗製濫造し、 その粗製濫造した経文やら戒律やら何やらでもって人心を惑わし強迫観念を植え付けている連中の方が、 私なんかよりも先に罰を受けることになるので特には困っておりません。
そんなわけで序章。
鎌倉時代の文章なので平安時代のに比べて読みやすいはずなのですが、 東大入試を終えて以来、古文の勉強なんて1秒もしていないので、五木寛之の訳文でいかせていただきます。
ちなみに原文と五木寛之訳を並べたら朧気ながら理解でき、かつ五木氏は色々と追記しているのね という感想となりますが、まあ書いてまいります。
そんなわけで、序文を簡単にまとめると、
となります。
まあ前書きなのでこんなものでしょうが、
皆を救済するのは親鸞という一個人ではなく、阿弥陀如来である。
あなたを救済してくれる阿弥陀如来というのは、断じて小太りのオッサンなどではない。あなた自身が見出した仏である。
ということには注意しときましょう。
何か親鸞を信奉し過ぎて「親鸞真理教」みたいになってる感じもするけど、あくまで救ってくれるのは阿弥陀仏でございますし、
前回書いた通り、どんな阿弥陀仏を思い浮かべるかは各人の全く自由で、ひろさちや的な書き方をすると、 「あなたの目の前にいる人が阿弥陀仏かもしれない」ということです。
ひろさちや氏がそんなこと仰っていたかは知らんけど。
続いて第一章の概要は以下の通り。
こんな感じで
「全てを救うという阿弥陀仏の本願、他力に身を任せていればオールオッケー」 「身を任せていれば『南無阿弥陀仏』という念仏が自然と出てくる」
なんていう、何とも楽チンチンな話となっております。
これにて浄土真宗の教義は終わり!閉廷!なのですが、 これだけ楽チンチンチンでシンプルだとあれやこれやと付け加えたくなるのが人情というもの。
そのせいで、親鸞が生きている時代ですら、「悪人ほど救われるのだから悪いことをした方が良い」だの 「救われるためには修行して品行方正にしなければならない」だの、尾ヒレをつけて曲解する人間が続出し、 親鸞の息子さえもそうなってしまったので、親鸞から絶縁されちゃったというのは有名な話であります。
尾ヒレといえば、現在の浄土真宗でも『正信偈』とかいう親鸞の書いた雑記をありがたがって唱えとるな。
「般若心経は自力になるから唱えない」とか言いながら 雑記やら無量寿経やら阿弥陀経やらを唱えるダブルスタンダードは傍からみて滑稽でございますし、
当の親鸞も「正信偈を唱えなければ救われない!さあ、皆で正信偈を唱えよう」などと言っとらんと思うのだけど、 一体どういうことなのでしょうか。自然と出てくるなら南無阿弥陀仏でも般若心経でも何でもええと思うけどな。
あとこれは浄土真宗に限ったことじゃないけど、金額で戒名のランク付けしたりとかは最早カルト宗教の所業やね。
まあ、そういった余計なことをする人間、 善行を積もうとしたり教義に尾ヒレをつけたりカルトシステムで金を巻き上げたりする人間ですら救済するというのが阿弥陀仏の本願であるので、 その本願に身を任せて適当にやればよろしいのであります。最後にゃ救われて極楽浄土なり何なりに行けるんだから。
こんなことを書いていると「じゃあオウムのような殺人集団ですら救われるのか」なんて話が出てきて、 実際『他力』の中で五木寛之氏もその辺について、 「よく分からんけど、蓮如が生きていたならオウムと戦っただろうなあ」なんて言及されています。
※蓮如:荒廃していた本願寺を建て直した8代目。何か親鸞に次いで偉い人。 浄土真宗の仏壇見ると中央に阿弥陀如来、右に親鸞、左に蓮如となっているので、 実家に仏壇ある田舎住まいの人は確認してみてちょ。 ちなみに一休さんが阿弥陀仏像を枕に昼寝していたところ、蓮如が「俺の商売道具に何をする」と言って笑ったとのこと。
でもオウムが駄目で信長と血で血を洗う抗争をした顕如がOKという道理はないだろう、 『信長の野望』で一向宗に苦戦したことのあるそこの君はどう思う?などと言いつつ、今回はここまで。
歎異抄ぉ^〜(念仏な挨拶)
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